NAGOYA Voicy Novels Cabinet

約束の日のキセキ

バスターミナル

父親には一生会うことはないと思っていた。別れて以来、養育費も無し連絡も無し靴下一つ送るで無し。どうやら今はハゲてるらしいよハハハ。疎遠になっている父親を母娘でくさして楽しんだ。
本当は会ってみたかったのだと思う。私の半分を作った人に。
母の保護下を離れ、社会人として独立するタイミングで、私は父に会うことを決めた。
人づてに知った父の勤務先に電話をかけた。
初めて聞く父親の声。
お話したい事があるので是非お会いしたいとだけ告げた。
約束の日。普段は着ないフェミニンな洋服に身を包み念入りにメイクをした。貴方が居なくても私はこんなに美しく育ちましたよと見せつけるため、同時にその衣装に、小刻みに震える身体を守って貰いたかった。
地下鉄の小さな駅の改札口。
数分に一度、降車した乗客が一斉に改札を抜ける。目をさらにして男性一人一人を凝視した。右目の端に、ゆっくりと近付いてくる黒コートの背の高い男性が映った。男性は私の名前を呼んだ。私は返事をした。
ドラマや映画で、運命の人と出会った瞬間、互いに微動だにせず見つめ合うというシーンがある。こんなの現実にあるわけないと鼻で笑っていた正にそのシーンが、私の実人生において繰り広げられていた。男性の黒縁メガネの奥の瞳がみるみる潤んだ。私の血が反応した。ああ確かにこの人だ。
駅の近くに唯一あったファストフード店に入った。
「何にする?いっぱいあるね。ボクはじゃあ海老バーガーにしようかな。」
私は胃袋の上部がキュッと糸で縛られた感じだったので紅茶だけを注文した。
二人掛けの席に向かい合って座った。父はまじまじと私を見つめ
「綺麗になったなぁ。」
と言った。
そして「お母さんによく似ている。」と。
私は母には似ていない。
切れ長の目、高い鼻、にかっと笑った時の大きな口は目の前にいるその人と瓜二つだった。
父に会うための口実を切り出した。
「大学の奨学金を返済しています。母の職業は安定しないので連帯保証人の名義を貴方に変更したいです。」
書類に必要事項を記入してもらった。
父は話し始めた。
可愛い盛りの娘と別れて毎日泣いたこと。頭を丸めたこと。こっそり姿を見に行ったこと。娘とはもう一生会えないと思ったこと。
「無責任な父親は今日、娘に刺されて死んでもいいと思った。」
目の前にいる初めて出会った男は、今迄私を愛したどの男より私を愛していた。私は、お気に入りのスカートを履いて父親の前でくるくるとはしゃぎ回る少女の様な心境になっていた。
「今日のこの日は神様からのプレゼントだと思う。」
父は言った。
どんな風に時間が過ぎたのか分からない。閉店を告げる音楽が流れ、いつの間にか激しい雨が降り出していた。
「会ってくれてありがとう。」
店の軒下で父は私に右手を差し出した。
私は父と握手をしなかった。
新たに家庭を持ち幸せに暮らす父とこれから頻繁に会うつもりはなかった。
「握手だけじゃ嫌です。」
その意味を察した父はぎこちなく私を抱き寄せた。辛うじて保たれていた均衡が崩れ、父は声を振り絞り私の名を呼び堰を切ったようにおいおい泣いた。雨の中シャッターを閉めに来た店のお兄さんは怪訝そうな表情で私たちを見ていた。
私はバスターミナルから最終バスに乗った。窓越しに父に手を振った。父は腕をいっぱいに伸ばし私に向かって手を振り続けた。バスが発車し角を曲がっても走ってついて来た。
“もうお父さん恥ずかしいからやめてよー”
そう。こんな思いを娘は日常で経験しているのだ。父と娘の20余年間は一日で取り戻された。
バスの中で父の書いた書類を眺めた。美しい文字。私はふとその生年月日に目をやりドキリとした。
「今日のこの日は神様からのプレゼントだと思う。」父の言葉が脳内でリフレインされた。
お父さん、今日誕生日だったんだ。

レストラン、遊園地、デパート、巷にはファミリーが溢れている。私は世界中のファミリーに声を大にして伝えたい。血の繋がった者同士、縁があった者同士が集う家族という形、当たり前のように過ごすその平和な時間は本当はとんでもない奇跡なんだよ、と。

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