NAGOYA Voicy Novels Cabinet

心骨に刻す

食堂

 今年も年賀状を書く季節がやってきた。古いアドレス帳を見ながら女房が言う。
「この松本市の杉原さんって方どなたなの?今まで一度も会ったこともなければ、年賀状や手紙が届いたことなどないし、昔の仕事関係の方か、古いお友達で今は交友の無くなった方なのかしら。それにしてはアドレス帳から削除していないし…」
私はその名前を聞いて43年前の約束を思い出していた。
 私は43年前受験に失敗し、しがない浪人生活を送っていた。地元の予備校には通わなかった。なぜなら私の両親が今年一年は勉強に専念できるようにと、わざと顔見知りのいない名古屋の予備校を選んで入学させたからだった。人恋しくて誰かと話したいが、自分から知らない人に話しかける勇気などなかった。
 夏休み中の夏期講習も終わり、浪人生として半年が過ぎた頃、学生を対象にしているが、あまり流行っていない、たまに出かける大盛食堂の片隅に、ランチを食べ終えたが未だ帰らず講義の予習か復習をしている予備校生らしき人物がいた。私が見つめているのに気付いた彼は、
「よう!」
と言いながら右手を軽く上げて、挨拶をするように近づいて来た。私の空いている向かいの席に座り、
「俺、杉原。君、俺と同じ講義をとっているよね。たまに見かけるからわかったんだ。」
そう言うと慣れた手つきで煙草に火をつけ、矢継早にしゃべり始めた。
長野から出て来たこと。今二浪目で一人暮らしをしていること。国立大学を目指していること。将来は成功して大物になりたいという夢を持っていること。自分に関するありとあらゆる現状と夢を語った。初めて出会った私に自分の夢や将来のことまで話す彼は、いつも一人で淋しそうにしている私の姿を見て、自分と同類であると感じたらしい。それがきっかけですぐに打ち解け毎日その食堂で会うようになった。
 それからというもの歳は1つ違えど親友としてお互いを大事に思うようになった。解らない問題などを教え合い、というよりも彼の方が優秀なのでいつも教えてもらうのは私の方だった。お互い切磋琢磨して受験に臨んだ。彼は普段の模擬試験では常に志望校の合格圏内にいた。それなのにどうして二浪なのかと疑問に思っていたが、受験を終えてその理由が判った。彼は本番に弱かったのだ。特に本命の国立大学の試験では、緊張により頭の中が真っ白になってしまい実力が発揮できなかったらしい。そして今年も彼は合格圏内にいたはずの本命に落ちてしまった。彼は淋しそうにこう言った。
「もうこれ以上親に迷惑をかけられないから、このまま滑り止めの大学に行くよ。」
その言葉には志望校への夢が叶わなかった無念さが滲み出ていた。彼とは反対に私は、予備校の判定では無理と言われていた国立大学に合格した。彼は私が国立大に合格したことを心から喜んでくれた。
 そしてそれぞれが新たな道に歩み出すことになり、引っ越しも決まり、一年間過ごしてきた名古屋で過ごす最後の日、私は大盛食堂に行ってみた。彼はすでにいつものテーブルにすわり、ランチを食べていた。私は彼の向かいに座り、一枚のメモを差し出した。すると彼も同じように私に用意していたメモを差し出した。お互いのメモ用紙には自分の実家の連絡先が書いてあった。
「これからお互い別々の道に進むけど、この半年間の友情は忘れない。そして将来どちらかが先に大物になった時、お互いを呼び寄せ、取り立てるなんてのはどうだい。」
と彼が言ったので、
「戦国武将でそんな物語があったな。」
と言うと、二人でどっと笑いながら最後のひと時を楽しく過ごして別れた。
 それが彼と会った最後になった。お互いが筆不精だったがため、以後手紙一枚書かなかったのだ。それから43年の歳月が流れ、私も白髪が増えたというよりも禿げあがり、昨年定年を迎えた。もちろん彼は私より年上だから定年も一年早いはずだ。
 私は彼を取り立てるほどの大物にはなれなかったが、いつか彼から連絡がくることを未だ夢見て、アドレス帳からは彼の名を抹消できずにいる。そして彼も同じことを思っているかもしれないと思い一人苦笑した。

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