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休日なのに満員電車

満員電車

  誰だって満員電車は嫌だと思う。いまの職場に勤めて4年、どんな嬉しい日も、ホームに飛びこんでくる満員電車を見るとげんなりする。何も考えない。僕はただの石だ。ただの石が満員電車に揺られるだけ。だから、休みの日くらい、見ず知らずの人と身体を押し合うなんてことはしたくなかったのに。
 年にいちど、友人との夏の小旅行が心おきなく楽しめるイベントだ。休日の、午前10時半に名古屋駅で待ち合わせることになっている。
 それなのに、よりによってダイヤの乱れが発生するなんて。電車はずいぶんと遅れている。信号機の故障による遅延のため、分散するはずの乗客が一両に圧縮されているだろう。ホームで待つこと15分、やってきた電車は、やはり混雑していた。
 平日とは客層が違う。スーツ姿の人はほとんど見えない。ドアが開いた。いつものように、降客を待つため一拍おいてから車両に足をかける。あえて正面は見ない。前の乗客の流れにあわせて、しかるべき場所に石のように転がっていけばよい。休みの日なのに、頭の中は平日と同じ仕様になってしまった。
 不意に腕をつかまれた。決して強い力ではなかったけれど、心臓が激しく鼓動をうつ。変なことに巻き込まれるのは嫌だ。混雑した車内、腕をつかんでいる主を確認することなく、僕は振り払おうとした。そのとき、小さな、とても小さな笑い声が聞こえた。
 電車が動き出した。乗客の身体がいっせいに進行方向に揺れた。腕をつかんでいる主に促されるように、僕は2、3歩移動した。
 すると目の前に1歳ほどの子供の顔が見えた。さっきの笑い声はこの子なのだろうか。小柄な母親は背中のこの子の他に、小さな赤ん坊を胸の前で抱きかかえている。母親の腕の中、赤ん坊は何の不安もなくおとなしく眠っている。
 母親を囲むように、関西弁のおばはんが3人立っている。僕の腕をつかんだのはいちばん背の高いおばはんだった。
 かわいい子やね。いくつになるん? 男の子? 女の子? へえ、ほなこれからまた乗り換えなあかんの? よう泣かんでおとなしくしてられるなあ。ほんまええ子やわ。
 平日のような混雑だったけど子供と母親の周りには穏やかな空気が広がっていた。電車がゆれるたび、僕は柄にもなく親子に人波がぶつかるのを阻止するように踏ん張っていた。足元に降ろしたバッグが誰かに踏まれている。けれどそれどころではない。手すりを強くつかんで、報われることのない防波堤となる。空調がいちだんと激しい風を吹き出すけれど、僕の額からは汗がにじみ出る。
 背中の子供が笑った。手を伸ばして、僕の帽子のつばに触れようとしているのか。ああ、ああ。それがその子の挨拶だった。ああ、ああ。幼い手が宙をつかむ。体勢がきついから帽子を近づけることはできない。僕は精一杯の笑顔を作ってみた。その子の目に映る世界は刻々と変化しているのだろう、笑ったり、不思議そうな顔をしたり、また笑ったり。
 満員で身動きの取れない親子を囲うようにおばはん達は立っている。傍若無人な関西弁がひときわ存在感を示す。おばはんは、僕の腕をつかんで誘導することで、僕や他の乗客と親子が衝突することを回避させたのかもしれない。知らんけど。
 次のターミナル駅に電車が停車する。ドアが開く前に、母親は赤ん坊を抱き直した。それから「ありがとうございました」とおばはん達に言って、小さくお辞儀した。
 気いつけてなあ。おばはん達はそう言って小さく手を振った。僕も親子に続いて降りようとバッグを拾いあげ歩を進めた。背中の子供が身をよじって僕の方を見る。ああ、ああ。そう言いながら手を振っているようだ。そのとき、また不意に腕をつかまれた。
 にいちゃん、おおきに。ほんまやで。
 電車から押し出された僕は、おばはん達の方を見ることもできなかった。ホームの中ほど、人波が和らぎ、振り返ったときにはすでにドアは閉まっていた。僕の耳に関西弁が優しく響いていた。僕はまんまとおばはん達に、親子の防波堤にさせられたのだ。バッグに誰かの靴跡がついている。それを払いながら、僕はきっと笑っていたに違いない。
 

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