NAGOYA Voicy Novels Cabinet

スタート「!」

ケアハウス

「ねえちゃんに夕方から何べんも電話しとるけど…そっちに行っとる?」叔父からの電話だった。「また受話器はずれとるんだわ。すみません、今見てきます。おじさんお元気そうですね。」部屋着のまま、近所のケアハウスに住む母の部屋に向かった。
 父が急逝し、母は「まだら○○」になったかと思われた。「認知症」という言い方はまだ聞き慣れない頃である。私は仕事で関西にいたが名古屋に帰ることにした。戦後まもなく建てられた中古住宅を両親は工面して購入し、姉と私を育てた。その家で一緒に住んでほしいという「まだら」だった。1年かかって母を説得し、家は整理して、私が住むアパートと同じ町内のケアハウスに入居してもらった。同居は避けたかった。
 私はスーパーのパン屋で働いた。朝は早いが午後からは自由になる。1か月の特訓の末、麺台を任されるようになっていた。8月、名古屋は暑い。子持ちパートが休みの日曜日は高校生バイトと2人シフトで、いつもは4人で回す作業を汗だくでこなす。ようやく食パンを売り場に出した昼過ぎ、ヘナヘナと膝からくずれ落ちた。高校生はふざけているのかと笑って見ている。
 「ごめんごめん。熱中症注意!」麺台につかまりながら立ち上がり、ペットボトルの水を飲んだ。
 部屋の合い鍵は持っていたがチェーンがかかっていた。何かあった時困るからこれはかけないでって言ってるでしょ、と腹をたてながら、ドアのすき間から小さな声で「お母さん、お母さん」と呼びかけた。応答はなく、扇風機の回る音が聞こえている。携帯電話でケアハウスのオーナーに連絡し、巨大なペンチでチェーンを切ってもらい、ラーメンスープをからだ中に浴びた母を発見。救急車を呼んだ。
 「恥ずかしい、親子そろって熱中症なんて。私も今日職場で倒れかけたんですよ。」力なく言い訳したが、隊員は黙っていた。
 2軒目の病院で撮ってもらったレントゲンは、頭部半分が白かった。処置すれば2週間ほど、またはもっと長い間持ちこたえられますが、と医師は説明した。「お互い延命治療はやめようと話していましたから、このままにしていただけますか。いちおう姉に電話で相談します。」まだ若い医師は驚いたようだった。少し離れたところにある病院を紹介された。
 「お姉ちゃん、びっくりしないでね…」と切り出した。携帯電話の向こうで「お母さんはあんたとならなんでも話したから。」と少しうらめしそうに認めてくれた。
 次の病院では集中治療室に入り、姉夫婦と姪が到着すると、カンファレンスルームで話を聞き、意思確認のため何枚もの書類にサインした。心臓が強いから少し長引くかもしれないと言われた。
 私が名古屋に帰ってから2人で海外旅行に出かけるようになった。「もう死ぬ…」が口癖でも、旅先が決まると毎日ウォーキングに励み、添乗員の説明に少し遠くなった耳を差し出すように首をのばす。馬にもラクダにも象にも乗った。韓国の高温サウナでは「もう危険」と係員に引きずり出されるまで頑張った。心臓と好奇心の強い母だった。
 治療室の担当は若いイケメンの看護士見習いだった。着替えのため家まで往復する私に「こちらにも用意がありますが、使い慣れた化粧品を持ってこられたらどうですか。」と教えてくれた。
 朝が来た。あと30分で治療室は出なければならない。集中治療室は治療のための部屋だから。母の呼吸が荒くなった。姉はいよいよ臨終となると「人工呼吸器を着けて下さい。何とかしていただけないんですか。」と詰め寄った。私は冷たくなっていく母のふくらはぎをなで続けた。
 母は初めて男の人に顔面マッサージをしてもらった。霊安室に移り、会計をして下さいと言われ、事務局で請求されたのは4万円足らず。昨夜からの重い時間が夢のようだ。映画「お葬式」を思いだした。俳優である主人公の義理の父が病院で大往生。マネージャー役の財津一郎は、治療費の安さに思わず笑ってしまう。うまかったな、財津一郎。
享年82歳。お母さん、こっちもクランクインだよ。ヨーイ、スタート「!」

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