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マスク
マスクがあって、
朗読:岡本理沙
  
フリー

 「女性必見! 小顔マスク」と書かれたポップを、目を細めてジッと見る。マスクをするとどうしても眼鏡が曇ってしまうため、今日も眼鏡を外していた。
 「マスクして袴着るってこと? だっさ。ありえないでしょ」
 スマホから聞こえた友の笑い声を思い出す。マスクと服の相性なんて心配していた私たちが、まさか一度も会えずに別れることになるとは予想していなかった。
 マスクも今はいろんな種類が出て、専門店まである。晴れ着にもつけていける。それでもあの頃の私たちは、卒業式をせずにそれぞれのタイミングで旅立った。
 従業員四十人ほどの小さな会社に就職をした私は、入社式も歓迎会も、忘年会もないまま今年を終えようとしている。
 特段イベントが好きというわけではない。どちらかといえば、そういう人との関わりは極力避けてきた人生だった。
 だけど、はやり病が日常を変えた。
 大学時代にできた唯一の友達は、この変化の中でも就職先の東京に行き、私は家から車で三十分のところで一日のほとんどを過ごすようになった。霞がかったパーテーションに囲まれて、電話対応や伝票処理などをするのは苦ではない。でも、ただ静かに会社と家を行ったり来たりすることに、一度も口元を見たことのない会社の人たちと接することに、喪失感のような寂しさを感じていた。
 人と関わりを持ちたい。初めてそう思った。
 それなのに目の悪い私は、皆がマスクをしていることも相まり、顔と名前を覚えるのに苦心していて、自分から人に話しかけることなど、到底できそうもなかった。
 マスクをつけていなかったらな、とよく思った。
 そんな時、毎朝行っている朝礼前のラジオ体操で、独特なリズムで屈伸する早川さんという人を見つけた。ぶらぶらと力の抜けた腕に、妙なリズムを踏んでいる膝関節。不意に笑いそうになった。
 誰もが真剣に体操する中、新入社員が突然笑い出すのはただ事じゃないので、必死に我慢しようとした。口元だけ爆笑していて、目は真剣な眼差し。マスクなしでは成立しないその顔に、初めてマスクがあって良かったと思った。
 それから日々できる業務が増える中で、必然的に早川さんと話す機会ができてきた。あんな変な体操をしているのに、仕事は真面目で、頼りになる人だった。
 私はまんまとそのギャップにやられてしまった。
 それと同時に、マナーとしてやっていた化粧に力が入るようになった。
 マスクがなかったら良かったのに、と思う。頑張った化粧を見てもらえるから。
 でも、こんなことも考えた。少し前に飛び出た前歯を隠せるから、マスクがあって良かった。風邪を引かなくなったから、それはつまり早川さんに会えるから、良かった。こんなご時世でも、早川さんに近づくことができるから、良かった。話ができた時、どうしてもニヤけてしまう口元を、気づかれずに済むから良かった。
 それでも、マスクの裏についた口紅をぼーっと眺めていると、頬にできたずっと消えないニキビを見つめていると、切なくなった。
 心の底から笑っている私を見てもらいたくても、叶わない。他の人じゃなくて、早川さんと話す時だけ口角が上がることにも気づいてもらえない。
 そして、早川さんの顔を、その表情のすべてを目に焼き付けることができたらどんなに幸せだろうかと思った。
 だけど、お茶を飲むその一瞬が愛しく感じられるから良かった。高く通った鼻筋も、少し薄い唇も、マスクをしていなかったら剃っているだろう髭も、その全部を見れた時に、嬉しさを感じることができるから、良かった。
 私は、今この人に出会って、切なさも嬉しさもすべてまとめて、本当に良かった。
 そんな想いをマスクの下に隠しながら、「小顔マスク」を手に取り、レジに向かった。

 

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