NAGOYA Voicy Novels Cabinet

介護の神様

カフェ

 その台詞は聞き飽きたって。あんたとは同期だから、この施設に勤めて、七年目。お互い入社した年から、もうずっと、それ言ってるじゃん。介護士って「辞める」「今度こそ辞める」って普段から公言してる人ほど、残ってく。本当に辞めちゃう子ってのは、何も言わないまま、ある日、気が付くといなくなってるもんでしょ。
 え? 私? 私も来年には三十歳だし、寿退社の一つでもブチかましたいと思ってはいるんだけど、まあ今は無理かな。担当フロアの吉川さん、看取ったら考えるつもり。そうなの、嚥下低下で誤嚥性肺炎繰り返してて、多分もうそんなに長くないと思うし。
 え? そもそも彼氏いるのかって? いるわけないじゃん、こんなに仕事忙しいのに。美容院にもいく暇なくて髪の毛モッサモサだし。体重だって絶賛記録更新中。ほんと雀の涙の退職金なんていらないから、身も心も入社したての頃のフレッシュさを返して欲しいよ。
 つい最近も婚活パーティー行ったんだけど、全然モテなくて。こっちが介護士だとわかると男も女も見下してくるんだよね。口では「大変な仕事ですね」とか言っておきながら、向こうの腰が引けちゃってるのがわかる。こないだなんて二次会の居酒屋で酔った男に「自分にはジジイやババアのシモの世話なんて出来ない」ってはっきり笑われたの。だから「あんたのママがボケたら、私が施設でオムツ変えてあげるから安心してね」って微笑み返してやったら、周囲ドン引き。ちょっといいなあって思ってた人も、鼻に皺寄せて苦笑いしてた。まあ、そんなときにウソ泣きの一つでも出来る女子力があれば苦労もしないんだろうけど。大体、この仕事続けてたら嫌でも気が強くなっちゃうよね。そうじゃなきゃ、やれないでしょう?
 そんなことがあって最近マジ落ち込んでて、私も少し前まで、辞めちゃおっかなって、ちょっと本気で考えてたんだ。でもさ、そんな時アレに出くわしちゃって。そう、また例のアレ。
 さっきもちょっと名前出した吉川さんなんだけど。半年くらい前から急に認知症進んでさ。会話では、もうあんまりコミュニケーション取れないくらい。支離滅裂でさ。排泄も自分では難しくなったから、定時刻にトイレでたっぷり濡れた紙パンツ交換してるんだけど、連れてくのも一苦労。新人の職員が無理矢理手を引いた時なんて、腕に噛みついてたからね。驚くでしょう、あの大人しかったおばあちゃんが、ほんの数か月でそんな風になっちゃうなんて。
 しかも吉川さん、紙パンツの中にティッシュ入れる癖があって、これがまた大変なんだよね。溶けて、みんな股間に貼り付いちゃってるもんだから。多分、自分なりに失禁対策のつもりなんだろうけど、毎回それを綺麗にしなきゃならないこっちの身にもなってよ。洋式便器に座ってもらって、こっちは吉川さんの股間が正面に来るようしゃがんで相対し、貼り付いた尿ティッシュを剥がしていくんだけどね。その最中、ふと居酒屋で男に言われた例の「シモの世話」って台詞が蘇っちゃったことがあってさ。情けない話だけど、私、本当に、泣いちゃいそうになっちゃって。――そしたらさ、そのタイミングでアレがくるんだもん。介護の神様はほんと残酷だよ。そうやって私たちをいつまでも辞めさせないようにしてくるんだから。
 頭上からさ「あんた綺麗な顔しとるな」って声が聞こえてね。顔を上げたら、吉川さんが私のおでこを優しく指でさっと撫でて「前髪、切りんさい」って。急に、その一瞬だけ認知症が進む以前の、あの穏やかな三河弁で、そう言ったの。
 私、備え付けてあったトイレットペーパーで鼻をかんで、その場で一発、大復活。バカだよねー、さっきまで辞めちゃうつもりだったのが「この人、看取るまで辞めません!」に変わっちゃうんだから。不思議なことに、私たち本気で辞めようと考えてる時に限って、いつも〈そういうアレ〉喰らって邪魔されちゃう。その繰り返しで、気が付いたらズルズルと介護の仕事続けちゃう。まあ単純な自分らも悪いんだけど。
 ねえ、でもさ、私らがやらなかったら誰がやるんですか、って話よね、そうじゃない?

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