NAGOYA Voicy Novels Cabinet

あんばようやりぁーよ

大須の招き猫

  俺、榎本太一郎、25歳。真面目にやっているのに、上司やお得意先に怒鳴られ、同僚からも馬鹿にされているトホホな会社員だ。毎日毎日、会社に行くのが億劫で、仕事が終わると心底ホッとする。
 会社から俺が住んでいるアパートまでは徒歩20分。ブツブツと独り言を言いながら、ダラダラと歩いて家に帰る。俺のストレス解消法だ。なんとなくスッキリしたような気分になる。しばらくはそれで済んでいたのに、今年、新しい上司が赴任してきたら、益々俺のストレスは増え続け、ダラダラ歩きだけではどうにもできなくなってきた。
 そんなある日、いつものように、どっぷりとストレスに浸かりながら歩いていると、突然空気の匂(にお)いが変わった。鼻の中いっぱいに湿っぽい匂いが充満して、あれっと思って空を見上げると真っ暗だった。すぐに激しい雨が降ってきた。俺は慌てて、大須商店街へ逃げ込んだ。しばらくすればやむだろうと思いながら、濡れた体をハンカチで拭いていた。
 「チェッ、ついてないや」俺は独り言を言った。
 空は益々真っ暗になり、稲妻が走り、耳が壊れるくらいの雷鳴が轟いた。
 「わあ、びっくりこいた。おそがかった」どこからか声がした。俺はキョロキョロと周りを見渡したが、近くにいた雨宿りの数人は誰もがスマホを見ていて、しゃべっている奴はいない。
 ついに俺も幻聴が聞こえるようになったのか、と思ったとき、
 「おみゃあさんも、えりゃーめにあったなも」と、また声がした。今度ははっきりと頭の上からだ。
 俺は、恐る恐る見上げた。目線の先には巨大な招き猫がある。こいつがしゃべった?まさかね。俺は平然を装った。
 「何、知らん顔しとるの、水くさいがね」俺はもう一度、招き猫を仰ぎ見た。えっ?招き猫がしゃべった!!俺は頭をぶんぶんと振った。あまりに振りすぎて、クラクラした。
 「何、たーけたことしとるの、気持ち悪なるに」俺は顔を上げずに、もしかして猫がしゃべってる?と訊いた。
 招き猫は「やっと気がついたかね、おっそいわ」とニャハハハハ…と笑った。俺もつられて訳もわからず、アッハハハ・・・と笑った。
 それから、俺は毎日招き猫としゃべるために大須商店街に寄り道した。
 「だからさあ、あの上司、馬鹿なんだって。自分のミスなのに俺のせいにして。君はいつになったら、一人前になるんだとか、給料もらいすぎじゃないのかとか、ネチネチと1時間も説教たれてさ、そんな時間があるなら、他の仕事しろっての、全…」
 「そりゃ、だちかんわ。そいつ、ちょーすいとるわ」
 「そうだよな。俺の言ってること正しいよな」
 「おみゃあさんは、ようやっとるわ。わしだったら、我慢できんわ」
 招き猫は俺の言うことを絶対否定しない。いつもいつも俺の味方だ。そして、帰り際には必ず「あんばようやりぁーよ」と言ってくれる。俺は、その言葉を糧に毎日、会社に通った。
 招き猫の名古屋弁はわからないところもあったが、そんなことはどうでもよかった。俺の話をちゃんと聞いてくれる。それだけでよかった。
 しばらくすると、様子が変わった。毎日、怒鳴られているのに、俺は落ち込まない。いや、怒鳴られる回数が減っていたに違いない。「あんばよう」やろうと心がけると、知らない間に相手も俺に親切になった気がする。あのいけ好かない上司でさえ、たまにだが、俺を褒めてくれるようになった。
 彼女もできた。俺は彼女を連れて大須商店街へ向かった。招き猫の下で
 「彼女ができたんだ」と紹介した。
 「どえりゃ、べっぴんさんだがね」招き猫は喜んでくれた。
 「みんな、招き猫のおかげだよ。ありがとう」俺は、精一杯の感謝を込めて言った。
 「何言っとりゃあすの、おみゃあさんが頑張ったでだがね」
 …俺、頑張ったのか?目の前の景色がぼやけた。
彼女が心配そうな顔をして見ている。
 「じゃ、また来るよ」俺はそう言って歩きかけると
 「あんばようやりぁーよ」と背中から大きな声が聞こえてきた。

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