NAGOYA Voicy Novels Cabinet

訛り

ベンチ

名古屋の人だ。
今の電話のアクセント。この隣の人、名古屋の人だ。語尾に「だって」って付けた。
「明日わたし試験なんだって」
そう言った。名古屋の人だ。いや、だけどもしかしたら他にもああいう語尾の地域があるかもしれない。他の方言にあまり詳しくないから今一つ自信が持てない。
話しかけたい、でも冷たくされたらどうしよう。
二ヶ月と四日前。二番目に行きたかった大学に合格し、東京に移り住んだ。引っ越しを手伝い終えた両親が帰り一人暮らしが始まったその日の夜、天井を見上げながら、もう帰りたいと思った。東京は何もかも速い。限られた秒数で選択を迫られるゲームみたい。新宿駅なんて完全にゲーム。どうしてみんな、顔色ひとつ変えずに他人を上手く避けながら歩けるのだろう。この二ヶ月、小さな「すみません」を何千回言ったか分からない。
一週間前。満員電車に耐えられなくなり、バスに乗ることにした。遠回りで本数が少ないし、遅れることもあるし、混んでいる時もあるけれど、家を出るのを早めれば電車よりマシ。降りてから大学まで結構歩かなきゃならないけど、それでも電車よりマシ。自分の手足が自分のものなのか分からなくなるほど圧迫される物体に、もう二度と乗りたくない。それに早朝のひんやりとした空気の中、朝日を見ながらベンチに座って待つ時間は嫌いじゃない。バスにして正解だったかも。ほんの少し、ここでの自分の生き方が見つかった気がした。
で、三分前。いつものようにベンチに座り、ぼんやりと空を見上げていたら、隣からローズ系のいい香りがして思わず横を見た。会社勤めらしきお姉さん。髪の毛サラサラ、靴ピカピカ、ブランドの革バッグ。どこの美容院に行ったらそんな一糸乱れぬロングヘアに仕上がるのだろう。わたしは後ろで一つに束ねただけのくせ毛を撫でつけた。その瞬間、お姉さんのスマホが鳴った。
「今から会社。そう…うん、分かっとるわ。でも明日わたし試験なんだって。何って昇進試験でしょー。うん。じゃあ、また」
名古屋の人だ。
今の電話のアクセント。この隣の人、名古屋の人だ。
話しかけたい、でも冷たくされたらどうしよう。
東京で、駅員さん以外の見知らぬ人に声をかけたことなんて無い。右隣でスマホを触っているお姉さんを目の端に入れながら、わたしは「どうしよう」をリフレインする。
持ち物だ。名古屋っぽい何かを持っていることが伝われば、興味を持ってくれるかもしれない。青いショルダーバッグを必死に漁ると、マナカが出てきた。わたしはマナカを両手で持ち、膝の上でこれみよがしに眺める。でもお姉さんはスマホに夢中でちっともこっちを見ない。あのスマホが憎い。
もう、やるしかない。わたしはお姉さんの方に身体全体を向け、大きく息を吸い込んだ。
「あの、すみません!」
思いのほか大きな声が出た。
「すみません、間違ってたらあれなんですけど」
声量を調節する能力がどこかに行ってしまった。お姉さんは目をまんまるにしてこちらを見ている。
「ほんと、いきなりであれなんですけど…、名古屋の方ですか。電話で話してるの聞いちゃって、それで」
「あなたも名古屋ですか?」
あなた、も?
「はい、じゃあ…」
お姉さんが微笑んだ。
「わたし実家が千種区、今池」
その言葉を聞いた途端、何故か声が出せなくなった。掠れそうな声を振り絞って伝える。
「…わたし、守山区です」
「守山! フルーツパークだ。嬉しいなあ。こんなところで名古屋の人に会えるなんて。え、ちょっと。なにぃ、泣いとるがね、ほらこれ」
お姉さんがハンカチを差し出した。口にしょっぱいものが入ってきていた。
「こっち来たばっかり?」
返事の代わりに首を大きく縦に振る。
「そっかそっか」
帰りたいと思っていたけれど、泣いたことはなかった。一人より、誰かが見ていてくれるほうが泣けるのかもしれない。
やがてバスが来た。お姉さんが「あなたもこれ?」と指差した。わたしは頷き、勢いよく立ち上がった。膝の上に乗せていたマナカが落ちた。
マナカは、にこにこ笑っていた。

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