NAGOYA Voicy Novels Cabinet

花殻のゆくえ

ビオラの花

花殻のゆくえ

福永真也

「わたしも一緒ね」そう小さく呟いたの。枯れかけたビオラの花びらに触れる吉田さんの指先は、確かに皺皺でねえ。ママ、ここ最近、その時のことが頭から離れなくなっててさ。
 吉田さんはついこないだ米寿のお祝いをしたばかりの、正真正銘のお年寄り。ママの勤める老人ホームで生活しているおばあちゃんなんだけど、脳梗塞の後遺症から左半身不随でさ。そういうこともあって普段はあまり手先を使うような作業は好まないんだけど、その時は珍しく「これから咲く花の栄養が取られちゃう」「全体の見栄えを良くするために」って、ベランダに放置されてたプランターの花殻摘みを自ら買って出たの。後から聞いたら、もともとガーデニングが趣味だったらしいんだけど。買って出てくれたのはいいものの、どうやらくたびれた小さな花と自分とを重ねて見てしまったみたいで、そんな台詞を不意に口にしてさ。ママ、吉田さんの後ろで車椅子押しながら、返す言葉が見つからず黙り込んじゃって。介護士失格だよね。その時の、ハンドルのグリップを握る手のひらが、汗でじっとり濡れたあの感触を今でもよく覚えてる。
 とりあえずその日以降、朝一番の花殻摘みがママの日課になった。同じことが起きないように。でも以前は覚えたことがなかった罪悪感が作業の手をどうしても鈍らせるの。花殻はゴミ箱に捨てるのも、なんだか忍びなくて、ママの仕事のメモ帳の中で仕方なく押し花にしてたんだけど、その数が増えていくたびに、ママの中での疑問も大きくなっていくわけ。あの時自分はどう応えるべきだったのか。「そんなことありませんよ」なんて白々しい台詞とか「人間と植物は違います」みたいな見当違いの正論、吉田さんにとってなんの慰めになる? 実際吉田さんのちょうど半分の歳、四十四歳のママだって、月に一回は白髪を染め、週に一回は踵の角質を削り、毎晩美顔ローラーで皺を伸ばし……って老いに必死になって抵抗しているわけ。自分が怖れ、嫌い、遠ざけているものを、どう肯定すればいい?
 そんな時よ、あんたが意外なアドバイスをくれたのは。リビングで溜息をついた瞬間、何の事情も知らないのに「ママ、そんな時はネイルだよ」ってそう言い放ったの。覚えてる? 女の悩みのほとんどは爪を綺麗にすれば解消するって。今年二十歳になったばかりの小娘がさ。偉そうに、確信めいて。でも正しかったよ。仕事柄ネイルしたことがなかったママは、されるがままあんたに彩られていく自分の爪を見ながら、メモ帳から溢れんばかりになっていた花殻たちのゆくえがわかったの。
 ネイルの修行は正直、介護福祉士の試験より難しかったわ。毎晩のように塗っては剥がしを繰り返されたあんたの爪もついには栄養を失いつつあったもんね。おかげでついには自分で自分の爪を施せるまでになったけど、すべて片手で行わなきゃならないそれは、やっぱり一番難しいね。吉田さんの普段の苦労が少しは知れたわ。
 それで今日なんだけど、出勤して一番、会社の上司にバレないうちに、さっそく自分のその爪の中のビオラを吉田さんに見せたんだけどね。ぽかんとした表情だった。たぶん本人はもうあの日の事は覚えてなかった。別に拍子抜けしなかったよ。むしろホッとした。その上で「吉田さんもやってみませんか」やっぱりそう仕掛けてみたの。
 麻痺した手は、当然のことながら身動きがないので塗りやすく、今までで一番綺麗に完成した。吉田さんはビオラの押し花が飾られた指先をしばらく見つめてた。そしてこう呟いた。「こっちの手を、こんなにまじまじと眺めたのはいつぶりかしら」って。ありがとう、あんたのおかげよ。
 そのあと、他の女性利用者にも押し花ネイルをしたんだけど、思ってた以上の反応でさ。普段はテレビに向かって「あんな爪でお勝手が出来るのかね」なんて若い女性タレントに悪態ついてた人も、「あらやだ」ってにやけちゃって。皆一様に指先へ目をやり溜息を漏らしてる老人ホームの光景。男の人が見たら気味悪がるかもね。でもさ、同じ女としては、なんだか笑えるような、勇気が出るような。ねえ、想像してみてよ、あんたもそう思わない?

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