NAGOYA Voicy Novels Cabinet

温室に迷子

温室の中

最近、母さんにかまわれてない気がする。
日曜の昼下がり、宿題を終わらせてランドセルの新しい傷を指でなぞっていると、リビングでうるさい電話が鳴った。うちは掃除ロボットや最新のオーブンレンジが揃っているのに、電話だけは黒電話だ。
「はい、ヤナギでございます。」
電話の受け方まで古臭くて、自分でも笑える。しかも、迷惑電話ならこの後お経を唱えて撃退するまで、十歳の俺は訓練されてる。
「もしもし私、占いの館ムーンライト、オーロラマキです。」
「あぁ、おばさん!」
「その呼び方、即刻やめて。あたしの可愛い甥っ子よ。あんた今日の靴下は黒とグレーの縞模様でしょう。ぷふふ。左の親指、穴開いてる。」
 ヒィ。マキおばさんは何でもお見通しで、その度に俺は黙り込んでしまう。
「いい?一度しか言わないからよく聞いて?時は来た。あんたはこれから北へ向かう。大きな川が見える。庄内川ね。そこは生温かくて、むわむわして、緑のにおいが強くって、生命力に溢れてる……そう、あの温室。いいわね、これから庄内緑地公園駅で地下鉄を降りて、温室を目指すの。あんたの本当に欲しいものは、そこで手に入れられる。」
「本当に欲しいもの?」
「そう。今すぐ向かいなさい。外は寒いからあったかくして出かけるのよ。それにしても、何その電話。黒電話は電気が止まっても使えるのよ、災害対策よ、なーんて。あんたの母さんは現実主義を通り越してシュールよね。じゃ、あたしもそんなに暇じゃないから。またね。」
ツーツーツー…嵐のような電話が切れた。俺は急いで靴下を重ねばきしてカギを握りながら慌てて家を出る。留守にしている母に黙って、ひとりで地下鉄に乗って出かけるための言い訳ができたからだ。マキおばさんが行けって言ったから。母さんはそんな適当な理由で外に出ることを許さないかもしれない。父さんと離れて暮らすようになってから、母さんは日曜の昼過ぎまでパートの仕事に入るようになった。もしかしたら母さんは、妹のマキおばさんがシングルで自由に生きていることが実は悔しいのかもしれない。俺だって本当は、冷凍食品ができあがるチン!という音を一人で聞くのが嫌なのかもしれない。
水色ラインの地下鉄に揺られて庄内緑地公園駅で降りる。
冬の明るく晴れた空の下で、すれ違う人たちは皆寒そうにしてるのに何故か幸せそうだった。スニーカーの中で靴下のつま先がごわごわして、俺だけがひとり、場違いな気がする。
お目当ての場所、ガラス張りの建物の中に入ると、目の前が一瞬で白くなった。マキおばさんの言う通り、ここは生温かく湿度が高くて、俺の冷えた眼鏡が曇ったのだ。ため息を吐き出しながら、袖口でレンズを拭いていると、
「おにいちゃん、」
幼い女の子の声がした。あたりを見回しても、南国の名前も知らない木々や熱帯の妖しげな花が並ぶばかり、ぼんやり見える小さな女の子の他には誰もいない。
「おにいちゃん、迷子なの?」
「俺は迷子じゃないよ、マキおばさんが行けって言ったから。」
「ぷふふ。」
女の子は吹き出した。
「いいからよく聞いて。これからおにいちゃんのお母さんがここに迎えに来る。そしたら恥ずかしがらずにこう言うの。母さんのハンバーグ食べたい、って。絶対よ、約束ね。」
 女の子の顔を覗きこむために眼鏡をかけると、目の前にそばかすだらけの顔…母さんがいた。血の気が引いた。
「もう、マキから電話があったわよ。なんでこんなところにいるのよ。」
 周りはすっかり薄暗くなっていて、母さんの顔は怒っているのか、呆れているのかよくわからない。ぷふふ、と母の口から、あの女の子そっくりな笑い声が漏れる。
「私が小学生くらいだったかな、この近くに家族でバーベキューしに来たの。そしたらマキがね、はぐれちゃって。ようやく戻ってきたら、温室にいたおにいちゃんが迷子だったから助けてあげた、ってマキが言ったのよ。おかしいでしょ、自分が迷子なのに。」
 久しぶりに母さんが笑うのを見た気がする。俺もやっぱり、迷子だったのか。
「母さん、心配させて、ごめん。母さんのハンバーグ食べたい。」

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