東片端のあたりに生まれた。
あの頃は自然豊かな町だった。
撞木町にある美しい薔薇科の落葉樹が咲き乱れる路地。
私はやんちゃでお転婆な子どもだった。
昭和18年。小学五年生。
親から離れて初めて疎開した。
集団疎開。キュウリとトマトが嫌いになった。
案外、好き嫌いが増えてしまった時期である。
そんなとき、四つ下の弟が同じく集団疎開で別のお寺に疎開してきた。
集団生活についていけない彼は、嫌で嫌で脱走したのである。彼は勇気、ある。
そこで2人は木曽平沢の叔父のところに預けられた。
昭和20年、ひとつの学校から1人しか入れないという松本の第一女学校に入学。
頑張った。
木曽平沢から松本の距離を知らなかった。
通ってみればとんでもない距離。
生活の半分くらいの時間、通学に費やすこととなった。
夏休みの8月。
天皇陛下のラジオを聴いた。
もう爆弾に怯えなくてもいいのだとホッとした。
終戦後、焼け出された両親とともに、やっとのことでようやく名古屋に帰ってきた。
まちは焼け野原。
なんにもなくなっていた。
栄のまちは笑っちゃうくらいに見晴らしがよくて。
あんなに都会だと思っていた景色が嘘みたいだった。
とってもとっても広く感じた。
それでも、まちのひとは当たり前に生きていた。
人間って強いなって、改めて思った。
みんな、逞しい。
それからしばらくして、道が通った。
いわゆる100メートル道路。
なんにもないからこそ、都市計画は立てやすいのだろう。
驚いた。
そして嬉しかった。
全部なくなったまちにどんと通ったこの幅の広い道路は、沢山のものを運べるに違いない。
名古屋が、また賑わしくなるだろう。
活気が出て、みんなが元気になる。
あのガチャガチャした風景に、早く戻ってほしい。
なんだかとってもワクワクした。
私はといえば。
名古屋市立第三高等女学校に転校。
二年生のときに、愛知県立第一中学校と統合。
いまの旭丘高等学校になった。
その3回生となった。
制服を決めるときの話。
運動場に全員集められてモデルさんがセーラー服を着て。
その可愛らしい様子に拍手喝采。
そしてそのままそれが制服に決定してしまった。
学校の名前もみんなで決めた。
「泉鏡花学院」などというなんだかよくわからない意見が乱発。
最後に決まったのが「旭丘高校」
いま思えばそれでよかったとしみじみ。
青春を満喫した時代。
校内マラソン大会では二年連続1位だった。
そんな頃、名古屋経済専門学校でシューベルトのますを独唱。
その頃から歌に目覚めて歌を極めたいと思った。歌うことが、好き。
高校3年生の秋。
音楽の指導をしてくださった大先輩と出逢う。
絞られて絞られて、歌の指導をしてくださった1回生。
最初は沢山の女学生のひとりだった私なのだけれど。
その後に結婚したのが私の大事な旦那さま。
あれから75年。
幸せな幸せな60年だったなあ。
パパはもういないけれど、幸せだったと改めて。
あんなに賑やかに市電が走っていた道さえも移り変わって。
すっかり栄のまちは変わった。
便利になって、色んなお店に出会える。
食べ物にも不自由しない。
私も相応に歳をとり、毎日をつつがなく過ごしている。
しかし、今でも昨日のことのように思い出す。
あの頃の栄の風景を。
いろんなことがあったけれど、穏やかに生きていけるこのまちの移り変わりが感慨深い。
セントラルパークの真ん中から新しいTV塔の綺麗なイルミネーションを見ながら思う。
名古屋のまちが好きだ。
生まれ育ったこのまちが好き。
大変なことも沢山あるけど。
大地に両足を踏みしめて、上を向いて歩いていこう、そう思う。