NAGOYA Voicy Novels Cabinet

思い出は一つとは限らない

芝の上にある野球ボール

 本当は逆なんじゃなかろうか。両手をメガホンにして声を張り上げていた私は、ふと我に返った。目の前で繰り広げられるプロ野球の試合に熱狂的な声援を送る私。その隣の席で熱心に本を読みふける父親。世間的には父親が試合に熱中して、子供が冷めた顔してスマホを弄ってるもんじゃないのか。目の端に留まった親子連れの姿に疑問が沸き上がったが、周りの熱い声援にすぐ霧散した。バッター空振り。スリーアウトチェンジ。今からドラゴンズの攻撃だ。

「父さん、今週の金曜日空いてない?バイト先の先輩から野球の観戦チケットもらったんだけど!」
「お、いいよ。その日はちょうど父さんも休みだ」
 父に野球観戦の趣味はない。恐らく未だにイチロー、ゴジラ松井で記憶が止まっているだろう。でも私の興味ある所に付いていくという教育方針だから、誘いを断られたことはない。
 一緒に野球観戦してくれる恋人もいなければ、友達もいない、一人で観戦する度胸のない私にとって、例え野球に興味がなかろうと父の存在は神にも、生贄にも等しかった。つまらない時間を過ごさせるだろうが、一年ぶり、生での試合観戦。私は興奮が収まらなかった。父には試合後、夕飯でも奢って我慢してもらおう。
 試合当日。私は大学の授業を受けた後に、父とバンテリンドームで落ち合うことになっていた。ダッシュで乗り込んだ地下鉄東山線の電車、汗を拭うと手に持っていた携帯が一回震えた。ちらりと画面に視線をやると、父のフルネームが表示されている。
『図書館にいる』
 どこだろうと一瞬首を傾げかけ、ああ、あそこかと思い当たった。行ったことはないが、駅からバンテリンドームまで歩く際、看板を見たことがある。
 初めて足を踏み入れる図書館は、本に興味のない自分でさえ神聖だった。試合前と同じようなわくわくと、背筋がしゃんと伸びる感覚が入り交じり、唾を飲む。自動ドアに歓迎されると、真っ先に目に入ったのは、平日にも関わらず本を持ち静かに貸出列を作る会社員、おばあちゃん、子供、まさに老若男女の列だった。列を横目に奥に足を進める。突き当りの右、座れる段差で、父は熱心にページをめくっていた。そっと近づいたぐらいでは父は私に気づかず、二回、三回と呼び掛けて、漸く父は顔を上げた。その顔はまるで、魂を本に置いてきたようだった。
「……いや、面白い本に出会ってしまったよ」
 私に言っているのか、それとも自分に言っているのか。父は未だ魂を本に引っ掛けたまま腕時計を確認すると、もうこんな時間かと呟いてすたすたと歩きだした。本を手にもったまま図書館を出ようとするもんだから、私は慌てて父の腕を取る。
「本、返さなきゃ」
 腕を取られ不思議そうに瞬きを繰り返していた父は、その言葉を聞けば子供のように無邪気に笑った。
「ああ、もう借りたんだ。貸出カードを作るとわくわくするなぁ」
 以降、この調子でずっと本を読んでいる。ドラゴンズの勝利で選手がガッツポーズをしたときも、観客が興奮冷めやらぬまま帰り支度をしていても、今こうして祝勝会と称しご飯を待ってる時だって、父は本から片時も目を離さなかった。流石にテーブルの上にきしめんが並べば、汚さないようにそっと、カバンの中に本を仕舞ったけども。
「父さんが本好きなの知ってたけど、そこまで好きなのは知らなかったな」
「本当に面白い本に出会ってしまったんだよ」
 じっくりときしめんを嚙みしめているのか、本の内容を噛みしめているのかわからない表情で父は頷いた。しかし急に魂が現実に戻ってきたのか、私と視線を合わせた父は、いつになく真剣な眼差しだった。
「誘ってくれて、ありがとうな」
 まさか感謝されるとは思わなかった。私は口元まで運んだ箸を止めて、そのまま戻した。本当は逆なんじゃなかろうか。私がお礼を言って、父は感謝されるべきなんじゃないか。そう思いかけて、止めた。
「こちらこそ、ついてきてくれてありがとう」
 父と野球観戦をした私。私の誘いで素敵な本を見つけた父。ちぐはぐで、最高の思い出を共有した親子は、ひっそりと笑ってきしめんを食べた。

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