NAGOYA Voicy Novels Cabinet

希望の泉

噴水

 「あんたは小さい頃から方向音痴だ」
 母に言われて初めて気がついた。
 そう言われれば、子供会で行ったアスレチックでも迷子になったし、巨大迷路からは二時間たっても出られなかったし、中学二年生のとき通学路を一本間違えて曲がって迷子になった。
 そうか、方向音痴だったのか。
 その時は至極納得した。けれどそれから随分経ってすっかり忘れてしまっていた。
 そして、今朝、テレビの今日の占いに「乙女座の人はいつもと違う道を歩いて。新たな出会いと発見があるかもよ」というのを見て、その通りにしてしまった。
 何でその通りにしてしまったのかはよく分からない。考えるにはわたしは疲れすぎている。
 わたしはだれ? OK、それは分かる。
 ここはどこ? ……セントラルパークだということは分かる。テレビ塔がどこにあるかも分かる。でも、目的地がテレビ塔の向こうなのか、こっちなのか分からない。いつも決まった地下鉄の出口を出てただけだから。
 誰かに道を聞こうと思っても誰もいない。こんなことになるなら意固地になってガラケーなんて使うんじゃなかった。スマホなら地図だって簡単に出せるはず。(よく知らないけど)
 そう思ってももう遅い。
 こんな時は原始にかえってまず東西南北を確かめよう。まだ朝だから太陽があるほうが東だ。
 わたしは空を見上げた。
 くもりだった。太陽は見えない。しかもどんどん濃い灰色の雲が集まってきている。
 強い風が吹いて、大きな木が覆いかぶさってくるかのように、ザザン、ザザンと揺れた。風はどんどん強くなり、あっちの枝もこっちの枝もまるで空間を歪めるように揺れている。空にはもうぎっしりと雨を含んだ雲が敷き詰められている。
 もう元の世界には戻れないかもしれない。
 ふとそんなことを思った。
 まともなことを考えるには疲れ過ぎていた。
 助けて!
 心の中で叫んで、心の中で泣いた。
 その時、低い植え込みのかげから女の人が現れた。はだかで両手を上げている。
「どうしたんです! 大丈夫ですか?」
 わたしはびっくりして声をかけた。けれど、女の人はにっこり笑って、
「あら、わたしは大丈夫。あなたが困っていたんでしょう?」と言う。
……そう言われれば、ついさっきまですごく困っていた。はだかの女の人が現れて一瞬忘れてしまったけれど。
 女の人がはだかのまま普通にしているので、
「寒くないですか?」
と聞いてみた。なんだか、はだかでいるのはおかしいですよ、と言いにくかった。
「いいえ、全然」
 女の人はまたにっこり笑う。
「どうして手を上げたままなんです?」
 わたしが聞くと、女の人はちょっと考えて、それから、
「それもそうね」
と言って、手をすっと下げた。そしてその下げた手を差し出すと、
「あなたの行きたいところはこっちですよ」
とわたしの手を引いた。その手があまりに冷たくて、わたしは思わず巻いていたストールを女の人にかけた。ストールをかけた女の人は天女(てんにょ)みたいにきれいだった。女のわたしでもうっとり見とれてしまう。
 気がつくと、わたしは噴水の前にいた。わたしはここに来たかったのだ。知ってる顔がこっちに近づいてくる。
「全く。またドタキャンかと思ったよ。遅刻するなら連絡くらいしろ」
 ゆうじが言った。
「わたし、迷子になっちゃったの。そしたら、はだかの女の人が……」
 言いかけて、わたしは驚いた。噴水の上にさっきの女の人にそっくりな彫刻がある。そして、その彫刻はわたしのストールを巻いている。
「さっきはありがとう」
 わたしはその彫刻に向かって手を振った。
「何やってんの、おまえ。仕事で疲れすぎ?」
 ゆうじが言っている。
 ふと見ると「希望の泉」と書かれていた。
 この噴水、希望の泉って言うんだ。いつもゆうじとの待ち合わせに使ってたけど初めて知った。思ってると、
「あんまり頑張りすぎるなよ」
と、ゆうじが思いのほかやさしく言った。そして、それからはたと気が付いた。
「乙女座の人はいつもと違う道を歩いてみて。新たな出会いと発見があるかもよ」という今日の占いのことを。

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