NAGOYA Voicy Novels Cabinet

ぼくの好きなおじさん

包丁を使う手元

誰もいない厨房で石黒さんは包丁を研いでいた。腰をくの字にし、屈み込むようにして砥石に包丁を滑らせる。リズムよくシュシュと音が鳴る。時々包丁を目の前に持ってきて刃の付き具合を確認する。白髪頭に筋目がビシッとついた割烹和帽子を乗せて、鋭い目付きで研いでいる。細めた目の横には深い皺が何本か入っていてそれは石黒さんが歩んできた職人人生と重なる。トマトにすぅっと刃を入れて包丁の切れ味をみる。熟れたトマトは崩れることなくまな板の上にとどまる。よし、と言った具合で頷いている。

「アレ、何ぃ?アンタおったの?」
僕に気付いた石黒さんがいつもの調子で声を掛けてくれた。
「切れ味最高ですね。トマト全然崩れないじゃないですか」
「こんなのね、チョロだわ」
石黒さんは、嬉しそうに笑う。

 歳は50代後半で独身らしい。家は「駅の方」で、そこが名駅の西口辺りだと知ったのはだいぶ経ってからだった。僕は大学を出てミュージシャンを目指すかたわら池下駅近くの料亭でアルバイトをしていて、石黒さんとはそこで出会った。石黒さんは「駅の方」から池下まで自転車で通っていた。

 石黒さんの腕は確かだ。綺麗に魚を捌くし、盛り付けも美しい。「こんなの、ちょいちょいだわ」褒めると大体、照れくさそうにそう言う。
 石黒さんはこの料亭に来てからまだ日が浅い。料理長は石黒さんよりも歳下で、それについては「包丁一本さらしに巻いてぇ〜旅に出るのも板場の修行ぉ〜、ね。アンタ、分かる?まぁアレだわ」と歌うとも語るでもなく職人の世界を伝えてくれる。しかし石黒さんは料理長の腕を全く認めていなくて、時にボソッと愚痴る。

 石黒さんが仕事終わりに居酒屋に誘ってくれた。
「アンタも大学出て、バイト?将来どうするの。あんまりアレだといかんよ」
石黒さんは、語彙力に乏しい。以前、美味しかった吸い物のレシピを尋ねた時は、「出汁にアレとアレと塩を、ぱっぱ。ね」と真顔で言われた。石黒さんと話す時は、前後の文脈と、口調や表情を気にしながら意味を汲み取る必要があった。だけど楽しかった。
「26才くらいまでバンドを頑張ってみようかなって思ってます」
「26か。俺は中学出てから包丁一本だったから、26、そりゃ、遊んだわ。モテたしな、ん?今はまぁ、アレだけど、昔は……、」
と若い頃の武勇伝が始まり、酔っ払った石黒さんは聞いたことのある話をまた、始める。確かに石黒さんは母性本能をくすぐるらしく、料亭の女性たちの評判は頗(すこぶ)る良い。時々刺身の余りを彼女たちに分けているからだけではない、滲み出るような可笑しさがある。
 石黒さんの自慢話に、アパートに同居している30代の女性がよく出てくる。自分より20才も歳下の彼女がいる、と得意気に話す。その彼女が仔猫を拾ってきたので、名前をクロにしたと言った。石黒のクロ。黒猫だったので丁度アレだわ、と喜んでいた。

 午前0時を過ぎ、石黒さんの奢りで店を出た。自転車に跨がった石黒さんが少しよろけたので、
「タクシー呼びますか?」
と声を掛けると
「大丈夫。これくらい。アレだわ」
と強がり、自転車を漕ぎはじめ、程なく歩道の植え込みへ突っ込み、転んだ。僕は何故か石黒さんに声を掛けることができなかったのだが、石黒さんはムクっと起き上がり再び自転車に跨がり、僕を振り返ることなくそのままフラフラと広小路通を西へと進んで行った。湿気を含んだ5月の空にぼんやりと月が見えた。

 夏が近づいて、一品に水茄子の田楽が加わった。半分に割った水茄子に小包丁で丁寧にさいの目を入れる。油に通すと茄子の黒紫色が増す。八丁味噌ベースのタレをかけ、いりごまを振り、仕上げに木の芽をあしらう。出来上がった田楽を見た石黒さんが、
「そう言えば、クロ死んだわ」
と呟いた。一緒に布団に入って寝ていたら石黒さんの寝返りの下敷きになってしまった、らしい。
「そう言うこと、あるんですね」
「まあ、アレだったわ。なっ」
不意に同意を求められた僕は、きっと悲しんだであろう自慢の彼女さんを思いながら、田楽をカウンターに出す石黒さんを見た。

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