「いらっしゃいませーーーーーーーーーーーー」
どこまでも伸びゆく、威勢の良い二代目男性店主の声。
その声すらもここ、味噌煮込うどん屋の、味であると気づいたのはいつからだったか。
先代の声が思い出せないほどに、俺がガキだったせいか。親父の声はまだ、今でもよく思い出せるのになあ。ここにはよく、親父に連れてきてもらった。
「味」とはそこにあっても、味わうだけの舌と記憶がなければ存在し得ない。ある程度の潤いと余裕がなければ、正しい味わい方にすら手も届かないと知ったのは、この土地を離れてからだ。味噌煮込みうどんをふうふう、冷ましてくれる家庭のぬるさに浸って成長した俺にとって、都会というところは冷たくかたく、ヒイヒイいうためだけの場所だった。とはいえ今も頭のどこかで、親父の小売業を継がなかった俺、あのまま会社員でうだつが上がらないけれども何故か家族には恵まれた俺、を思い浮かべてしまう。味わったことのない俺、を。
「味噌煮込みうどん、親子で。」
「ありがとうございまーーーーーーーーー」
す、の音が聞こえないのは自分の耳のせいか、うどんを切る店主のやわらかな発音のためか。
うどんの出来上がりを待つ間に茶を啜っていると、壁に留められたいくつものカレンダーが気になりはじめる。連なる名前は地元の中小企業、御園座、近隣の飲食店。気の好さそうな店主の趣味だろうか、おそらくは「つきあい」でこのようにカレンダーばかり増えてしまったのだろう。お客が、自分のところのカレンダーを見つけられないと、がっかりしてしまうから。俺は想像する。毎月末、彼や彼の奥方が一枚一枚丁寧にカレンダーを破り取るさまを。あの長い長い「ありがとうございまーーーーーーーーー」す、と同じテンポではらり、名残惜しそうに紙を握りしめる、その瞬間を。
「お待たせいたしました。味噌煮込みうどん、親子です。」
ぐつぐつと煮えたぎる茶色の土鍋。とろみを帯びたあぶくに、葱の緑と白が目に嬉しい。レンゲを浸して、ずずっと汁を啜る。鰹の出汁がきいていて、すっと飲めるのがいい。この熱くてまろやかな味噌の後味、キレの良さが普通の赤出汁とは一線を画している。小麦の平たくて太い麺が一本一本個性的で、情さえわいてきそうだ。麺は時間の経過とともに食感を変えていくから、いつまでも飽きない。
俺はいつも、かしわと玉子入りの親子。そこへさらに海老天を入れる、欲張りな輩はたいてい観光客だ。
「これこれ!名古屋といえばえびふりゃーだがね!やんなー?」
「なにゆーてんの?フライと天ぷら、全然ちゃうがな。」
後ろの関西風イントネーション、若い男女が盛り上がっている。
さあ、ここらでピリッと一味か、七味か。悩んでいると、隣のテーブルからしわがれた声がひそひそ。
「そこの奥さん、嫁がぶすだから一緒に住まん、ていうんだわあ。」
「そういやあそこの旦那さん、風呂場で倒れたんだわ。湯船で足腰が立たんようになって。」
かしまし元娘、おばあちゃんたちの真っ昼間から遠慮のないぎりぎりの、昼ドラも真っ青な噂話こそ、最高のスパイスだ。
そういえば、親父が食べた後の土鍋は、いつも汁まで空だった。その時と味は変わらない、気がする。あのあたたかな店主がそれを守ってくれている、気がする。気がする、なんて不確かでおそらくは、俺の願望なのかもしれないが。そう、俺の願望。願望、ね。願望とはいい年したおっさんが、と自嘲的に土鍋を見下ろす。温かみを残した土鍋はすっかり空っぽで、俺の胃袋は熱く、額からは汗が噴き出す。ふーーーーーーーーーっと、大きく長く、一息吐き出せば、今にも親父の声が聞こえてきそうだ。
「そろそろ行こうか。」
それがこの味。俺の味噌煮込みうどんの味、まことや。