NAGOYA Voicy Novels Cabinet

東を向いた自転車

自転車置き場

平日の朝、鶴舞に来るのは久しぶりだ。桜は満開に近いが、人はまばらだ。徹夜で場所取りをしている人の姿もない。

 平成二十四年当時、私は鶴舞駅から徒歩二十分のオフィスで働いていた。歩くには少し遠いが、駅前が駐輪無料だったので、駅と職場間は自転車を使っていた。四番出口から出たところすぐ、公園トイレの近くに駐輪スペースがあった。朝は乱雑に置かれた中から自分の自転車を探し、見つけたら左右にスペースを作りながら出す。カゴやハンドルに隣の自転車が引っかかり、出すのに時間がかかることも多い。毎朝、公園管理の人たちだろう、職員数名が自転車を整頓しているのを目にしていた。運がいいと、きれいに並べたての場所から出すことができる。
 ある日、苦労して自転車を出そうとしていると、整頓していた男性の一人が寄って来た。アイボリーの揃いの作業着に帽子をかぶっている。頬にシミが目立ち、口元に深い皴も刻まれているので六十歳以上だろう。面長の顔からは、穏やかな笑みが見られた。
「どっち方面に行きますか?」
「こっちです」と東側を指さすと、男性は西向きに置かれている自転車を持ち上げるように出して、東向きに置いてくれた。
「ありがとうございます」と挨拶すると、「行ってらっしゃい」と見送ってくれた。
 次の日、四番出口を出ると、私の白い自転車は東の方向を向けてすでに出されてあった。え、と思っていると「出しといたよ」と、少し遠くから例の帽子の男性が言う。帽子をかぶっている職員が少ないので、よく分かる。
「あ、ありがとうございます」
 戸惑いながらも、朝から嬉しくなる。以降、毎日ではないが、駅に着くと私の自転車がすでに東向きに出されていることが多くなった。休む日はあらかじめ言っておくほうが良いのだろうか、と思ったが、突然休むこともあるので、出してくれた日にお礼を言うだけにした。
 仕事はきつく職場に行くのは憂鬱だった。上司とは全く反りが合わない。机の脇に立たされて、十五分近く説教されたこともある。ハラスメントで訴えることも考えたが、ぐっと我慢した。年内に結婚して三重に引っ越すことが決まっていたので、三重事務所への転勤希望届を出していたのだ。上司を訴えたことで、希望を妨害されるかもしれないし、受入れ先が面倒な人だと思って嫌がるかもしれない。
 駐輪場でのやり取りは次第に、朝の楽しみになっていった。「おはようございます。いつもありがとうございます」というと、男性は「行ってらっしゃい」と言って、作業に戻る。それだけだ。彼らは自転車の整頓だけでなく、園内のゴミを片づけるなど、公園を綺麗に維持していた。
 九月に入ると、鶴舞駅前駐輪場有料化が始まった。私は定期駐輪場を契約せず、駅と職場間を歩くことにした。自転車は職場に置いたままだ。同じころ、十月一日付での転勤が告げられた。もうすぐ鶴舞にも来なくなる。今度会ったらあの男性にお礼を言っておきたい、と思ったが、電車の時間を早めたせいか、なかなか会うことがなかった。
 ある朝、鶴舞公園の中を歩き、もうすぐ東側の出口というあたりで、あの男性を見かけた。間違いない。作業着に帽子、面長で優しそうな笑顔。他の職員と一緒に、リヤカーに荷物を載せながら歩いている。話しかけたかったが、一人でなかったし、明らかに仕事中だったので、躊躇してしまった。じっと視線を向けると気づいてくれ、会釈すると、男性も笑顔で会釈を返してくれた。久しぶりだった。

 鶴舞公園は本来なら、花見シーズン真っ只中だ。毎年、四月初めは出店やキッチンカーが出て、夜は歩けないほどの賑わいになる。今年は花見自粛のため夜間ライトアップも中止になったが、桜の木の下が所々汚れている。誰かが花見をした痕跡だ。作業着を着た職員たちが散らかしたままのブルーシートや空き缶、ピザの箱などのゴミを片づけていた。あの男性は今も元気だろうか。八年経っているから、もう引退しただろうか。黙々と働く公園管理の職員たちを見て、名前も知らないが、毎日のように自転車を東向きに置いて笑顔で送ってくれた男性のことを思い出した。

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