NAGOYA Voicy Novels Cabinet

プライスダウン

柴犬

 よく行くスーパーの横にペットショップがある。入口の自動扉前にメダカのいる瓶があって、店内に入ると左手がレジカウンター。その奥には、トリマースペース。右手には、フリモ等のフリーぺーパーが置いてある棚があり、その前を通りすぎて進むとキャットタワーなんかが並んでいる。地域密着型のお店ではあるものの、猫と犬以外にウサギに魚、爬虫類、昆虫類、鳥にハリネズミまで取り扱っているので客足が絶えないのも頷ける。
 頷いては見たものの、私といえば単なる冷やかしの客だ。四十を過ぎても独り身で、主な来店理由はスーパーでお惣菜が値引き時間になるまでの暇つぶしである。商品として飾られる動物たちに少しばかりの悲哀を感じながらも、その圧倒的な可愛らしさに胸を打たれつつ、598円の刺身三種盛りが半額になるのを待っているのだ。
 その日もいつも通り、本日のメインディッシュを黒酢酢豚にしようと思いながら、値引きの時間つぶしにペットショップに足を踏み入れた。そして、私は出会ってしまった。つぶらな瞳、力強くピンとしていればいいのにと思わせる絶妙に柔らかく垂れ曲がった耳、自分の家族になるかもしれない人たちが見に来ているのも我関せずソッポを向いている彼女に。
 プライスカードには、柴犬、雌、○月〇日生まれ、『とても人懐っこい性格ですよ!』、十六万八千円。…正直に言おう、胸がキュンキュンした。この世にこんなにも愛らしい生物がいるのだろうか、と。
 が、だからと言って『よし、決めた!彼女を我が家に迎えよう』などと思いはしない。そもそも私はペット可のアパートには住んでいないのだ。いや、もし迎えられる環境であったとしても店で売っている動物を買うべきなのか、とも考えてしまう。犬については殺処分ゼロというニュースを見た気がするけれど、猫はまだまだなんて話も聞いたように思う。違うんだ、猫が飼いたいわけではないのだ。今、目の前にいる柴犬と暮らしたいのだ。でも、一緒に暮らせる環境じゃないし。止めろ、私のことをそんな目で見るな。見ないでくれよ、ハナちゃん。
 恋に落ちた心を落ち着かせて、黒酢酢豚で一杯やりながら私は考える。少なくとも、このアパートでは一緒に暮らせない。迎え入れるとしてもきちんとした環境でなくてはいけないのだ。そんな甲斐性が私にあるのか?四十を過ぎて独り身であるのは人それぞれ理由があるだろうが、私自身に限って言えば、それなりに理由があるということを理解している。つまりは甲斐性がなかったのだ。そんな私がハナちゃんを迎え入れることができるのか。
 逡巡を抱えながら、ペットショップに通う日々。こんなにも愛らしい柴犬だ、すぐに良い家族に迎えられてしまうだろう、そんな風に思う私の気持ちとは裏腹に彼女はどんどん大きくなっていく。そして、その現実は残酷にプライスカードに現れる。…彼女の値段が徐々に下がり始めたのである。
 どうして、こんなにも愛らしいハナちゃんが。鼻の横にある黒ブチが良くないのか?いや、そこがチャームポイントだろ?客が見に来た時にたいていソッポ向いているのが良くないのか?いやいや、ちょっとシャイなだけじゃないか。むしろ、そこが美徳だろ?ちょっと待ってくれよ、値段の下がり続けるハナちゃんはどうなっちゃうんだよ。まだ、引っ越すのとか準備できてないよ。いつまでお店に置いてもらえるの?とりあえず、迎え入れる気持ちがあることだけ伝えたほうがいいんじゃない?でも、気持ちとか伝えられても店の人は困るんじゃないか?
 仕事帰り、いつものようにスーパーで買い出し。値引きの時間合わせという言い訳で彼女に会いに行く。小さい女の子連れのご家族がちょこんとトリミングコーナーの前に座っている。

ショーケース。彼女はいない。トリミング中か?
違う、プライスカードがない。
瞬間、バックヤードから続く扉が開く。
彼女だ!
女の子連れの家族に店員さんが「最初のうちは緊張してご飯をあまり…」、キョトンとした顔で抱っこされている彼女。

私は店を出る。
真っ暗な駐車場を歩きながら、頭上には曇天の夜空。
ハナちゃんに幸あれ!

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