NAGOYA Voicy Novels Cabinet

しるし

老人の手を握る

 よく聞かれるんですけどね、ないですよ、そんなの。いわゆる3Kな仕事で、給料まで安いですからね。「やりがい」とか「感動」みたいなプライスレスなボーナスがなきゃ、介護なんて続くわけないって普通の人なら思うんでしょう。でも期待してるような全米も涙するようなエピソードなんて浮かばないんだよなあ。
 周りの皆にも言われますよ、若い男なんだし仕事なら他にいくらでもあるだろうって。今の介護施設を、辞めずに続けている理由なんて、こっちが教えて欲しいくらいですよ。
 あ、すいません、そんな愚痴を言ってる場合じゃない、採用されたら一万五千円貰えるんですもんね。金欠で接骨院行けてなくて、腰痛いんですよ。以前は利用者さんにこっそり湿布分けてもらってしのいでたんですけど、その人ちょっと前に亡くなっちゃったしなあ。
 いや、その爺さん、別に優しく穏やかなお年寄りってわけじゃなかったですよ。むしろいつも服や財布を盗られたって喚いてるような人で。物盗られ妄想っていうんですけど、認知症にはよくあるものでして。大抵は枕か敷布団の下あたりから出てきます。自分で隠したの忘れちゃってるんですよね。
 薬に関してもうるさかったなあ。飲んだこと忘れて日に何度も催促してくるんですから。湿布なんかも「昨日のやつ、貼り換えてくれ」って遠山の金さんよろしく、器用に肩出して迫ってくるんですけど、つい五分前に貼ったやつなんです。こっちも湿布に貼った日付時刻、対応した職員の名前をマジックで書くようにしてたんですけど。爺さん、自分で剥がして隠して忘れてってパターンもありますから。僕の苗字「花牟禮」ですよ? 面倒なんでもう花丸の絵を描いてましたよ。
 いや、難しい名前だからってわけじゃないだろうけど、僕のことも最期まで正確な名前では覚えられなかったみたいです。別に寂しくないですよ。名指しで泥棒扱いされても困るだけだし。
 そんな困った人なんですけど、居室で湿布貼ってあげるときだけは「あんたも一枚どうだ」って、まるでお酒でも誘うみたいに必ずそう言ってくれるんです。本当は貰うの駄目なんだけど、実際こっちも腰痛いし、ついつい甘えちゃって。なによりいつも本当に自然な口調なんです。認知症の人とは思えないくらい。ああいう人たちって、他人に何かしてもらう時より、何かしてあげる時の方が嬉しそうなんですよ?「生き返ります」なんて喜んでみせると、前歯2本だけのリスみたいな口おっぴろげて、いい顔して笑うんです。他人に無責任に何かしてあげるって根源的な快感がある、この仕事しているとつくづくそう思います。
 その爺さん、施設で看取りましたけど、癌だったんでモルヒネ使って四六時中寝てるような状態でした。苦しまずにすんでよかったって思うようにしています。最期の瞬間もドラマみたいな”手を握ってありがとう”なんてわかりやすいエピソードはありませんでしたよ。ただ……亡くなった後、娘さんが居室の片付けに見えた際、ちょっとしたことはありましたね。
「ああ、あなたが花のお兄さんね」と制服の名札にちらり目をやり、含み笑いを浮かべたんですね。こっちはなんのことかわからず小さく首を捻っていたら、嬉しそうに説明してくれました。爺さんの居室内のタンスや額縁、テレビやベッドの裏など、目に付かない至る所へ不器用に千切られた湿布の花丸が貼られてあったんですって。以前から「俺が死んだらみんなハナノアンチャンにやれ」って言ってたのだとか。認知症で話の脈絡がないのに加え、なにしろ歯がないでしょう。娘さん、ハナノアンチャンが聞き取れず、何のことかわかってなかったみたいで。
「いります? タンス」って聞かれて、その場で大笑い。身体中痛いくせにどうやってタンス動かしたんだよ、そもそもテレビやベッドは施設のもんだろう、って。二人とも笑いすぎて最後には泣いちゃってましたね。
 だから初めに言ったじゃないですか、介護だからってシリアスなエピソードなんてないって。過ぎちゃえば大したことない、笑い話ですよ。こんなくだらない話ならいくらでもあるんですけど、駄目ですかね?

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