NAGOYA Voicy Novels Cabinet

夢の明かりが灯るとき

舞台照明

舞台上手袖は、奇妙な緊張感に包まれていた。
 上手袖だけではない。客席を含めた劇場全体が、緊張感に包まれていた。
 待機しているキャスト、スタッフもみな神妙な面持ちをしている。
 本番開始五分前なのは勿論おおきな理由としてあるだろう。けれど、それだけが原因ではないことはわかっていた。
 今日、この劇場では三カ月ぶりに観客を入れての舞台公演が行われる。その先陣を切るのが私たちの劇団だった。
 ほんの数カ月で世界は大きく変わってしまった。
 舞台公演は軒並み中止になり、日本中で劇場の灯は消えた。誰も経験したことのない災禍に対して、私にできることなど何もなかった。この三カ月の中で、もう二度と舞台には立てないのではないかと思う日が何度もあった。
 不要不急の外出を控え、友人や劇団仲間とも会えない日々。少しづつ、しかし確実に、孤独が心を蝕んでいくのを感じた。
 いつの間にか舞台の再開こそが私にとっての希望であり、生きる理由になっていた。失ってみて初めて自分が一番大切なものに気づくことができた。
 劇団員とは直接会うことができないので、ネット会議やメールを通して、毎日のように話し合いを行った。その結果として、私たちの劇団は舞台の幕を開けることを選んだ。公演を行うことに反対し、辞めてしまった劇団員もいた。
 自分が舞台に対してどう向き合っていくかを、否応なしに突きつけられることになった。
 私たちの選択は間違っているのかもしれない……。
 あんなにも話し合い、自分の中で結論も出たはずなのに、今になってそんな考えが頭をよぎる。
 舞台芸術など、必要ないと思う人たちがいるのも理解している。日常生活すらままならないような現在の状況下で、無理してまで舞台公演を行うことに、反対する人が多数いることも受け入れている。公演で感染者が出てしまい、凄まじい批判を浴びることになるかもしれないことも覚悟している。
 劇団員全員で考えに考え、できうる限りのことは全てやったつもりだ。劇場側との話し合いも何度も重ねてきた。もちろん、ガイドラインも順守している。
 開演五分前だというのに、客席は不気味なほど静まりかえっていた。マスク着用はもちろんのことだが、できるだけ会話も控えてもらうようにお願いしているからだ。 
 幸いなことに全ステージ完売。しかし客席数は半分に減らしているので完売でも大赤字だった。赤字の補てんは劇団員全員で頭割りする。
 どんなことをしてでも、舞台に再び明かりを灯したかった。その気持ちだけは劇団員、そして観客も同じだと信じていた。
「開演時間です」
 舞台監督が黒いマスクの下で、静かに告げた。
 袖にいる全員が奥に立っている演出家兼主宰を見た。腕を組んで立っていた主宰は、大きく頷いた。
 私は大きく息を吸い込んだ。ゆっくりと息を吐き出せば、舞台に向かって心が収束していく。
 音楽が鳴り響き、スポットライトの明かりが灯る。
 袖から飛び出せば、そこはもう違う世界。夢と虚構に満ちた、舞台の世界。
 初舞台の時のように、緊張で膝が震えた。
 舞台俳優になって以来、何度も舞台に立ち、もう慣れていると思っていたのに……今まで感じたことのない恐怖が足元に忍び寄る。
 気合いを入れるため、自分の頬を思いっきり両手で叩いた。全てにおいて初心に戻った気分だった。
 恐れるな。恐怖を受け入れろ。今までだってそうしてきたじゃないか。あのスポットライトの下が私の居場所だ。私の生きる世界なのだ。あんなにも、あの明かりの下に戻ることを望んでいたじゃないか。 
 ここで逃げたら、私はもう舞台俳優を名乗る資格はない。
 もしかしたら、今からの舞台は私の今まで知っていた舞台の世界とは違うのかもしれない。しかしそれでも、私には舞台が必要だ。スポットライトが私にとっての太陽なのだ。舞台に立つことは私にとって生きる意味でもあり、理由でもあるのだから。
 意を決し、私は袖から飛び出した。
 あの明かりの先に、新しい世界があると信じて。

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