NAGOYA Voicy Novels Cabinet

星空の栞

本棚

 仕事人間の父が、突然、
「明日から休みをとったから、温泉でも行くか」
などと言い出したのだから、そりゃ何かあるんだろうとは思った。
 高3の夏になっても志望校も決めずにいる僕にしびれを切らして、夜通し説教でもするつもりなのかと勘ぐったりもした。
 だが、まるで違った。
「肺に腫瘍……悪性……母さんが……?」
 竹筒から流れ落ちる源泉が岩風呂の湯面を激しく揺らすのを眺めながら、僕は、父から聞かされた不吉な言葉の数々を口の中で反芻した。
「それ、どういう……」
 言いかけて、やめた。
 どういうことか、なんて聞かなくても分かる。
 ただ、頭で理解するのと心が受け入れるのとは別問題だというだけで。
「治療の説明を受けた時、母さんときたら『じゃあ、今のうちにやりたいことやらなくちゃ! まずは温泉よ!』なんて言ってな」
「はは。母さんらしい」
 根っから明るい母が、いかにも言いそうなことだ。
「それにひきかえ俺はダメだな。俺は弱くて――怖い。……このまま母さんを失ってしまったらと思うと、怖くてたまらないんだ……!」
 父は肩を小刻みに震わせ、声をつまらせた。
 僕はなんて言えばいいのかわからず、父の手をそっと握った。

 夜、僕たちは散歩に出た。
 ここの旅館は、海に面している。
 浜辺におりると、潮の香りを含んだ風が僕たちの間を吹き抜けた。
 鈍色に光る海原の沖合で、波頭が白く浮かびあがっては消えるのが見える。
「あっ。木星と土星!」
 ふと、母がはずんだ声をあげ、すっと指を空高くのばした。
「ほら、見える? あのビカビカに目立ってるのが木星で、そのそばにあるのが土星。あの二つが並ぶのは、二十年に一度なのよ」
 母が星に詳しいとは意外だった。
「すごいな、母さん。よく知ってるね」
それまでただの景色にすぎなかった空が、とたんに、名を持つ星たちの集まる特別なものに見えてきたから不思議だ。星空が尊く感じられて、僕は、胸が高鳴った。
「ふふ。昔、お父さんが教えてくれたの」
「ええっ、父さんが?」
 カタブツを絵にかいたような父がロマンチックに星を語る姿など、想像できない。
「次にあの星が並ぶ時も一緒に見よう、って言ってくれたの。――あれから二十年かぁ。ね、お父さん。覚えてる?」
 母の問いに、父は答えなかった。
 でも、こんな暗がりでも分かるほどに、父は耳の先まで赤くなっていたので、きっと覚えているのだろう。
「ふふ。もう一回、この星空が見られてよかった」
 満足げにため息をつく母に、
「まだ二十年後もあるだろ」
 父が怒った声でつぶやいた。

 あれから二十年。
 あの夜、夢を見つけた僕は、進路を定めて勉学に励み、念願かなって今は名古屋市科学館のプラネタリウムで解説員をしている。
「ごらんいただいているのは、本日二十一時の名古屋の空です」
 照明を落としたドーム内に、僕は、落ち着いた曲調のBGMを控えめな音量で流した。
 客席を見ると、入り口にほど近い席に父が、その隣には車いすに乗った母が座っている。
 あの後、数えきれないほどの入退院を繰り返しながらも、母は、「今のうちにやりたいことをやっておかなくちゃね」と口癖のように言って、毎日をパワフルに過ごしている。
「南東の空に明るい星が二つ並んでいるのが見えますね。これは木星と土星です。木星は約十二年、土星は約三十年の周期で太陽の周りを公転しているので、二十年に一度、この二つが並んで見えるというわけです」
 僕が映しだす星空を、母が、目を輝かせて見上げている。そんな母を、父は穏やかな笑みを浮かべて見つめていた。
 二人の姿を見ていると、あの夜のことが自然と思い出されて、僕は軽く目を閉じた。
「星空は、心の栞です。いつ、どこで、だれと見たのかという思い出も、星空とともに記憶に刻まれます。今夜の予報は、晴れ。どうぞ、大切な人といっしょに空を見上げてみてください。そして、その星空を栞にして、あなたの心にはさんでください」
 その栞が、どうか幸せな思い出とともにありますように――。
 そう祈りながら、僕はBGMの音量をゆっくりと上げた。

柴野理奈子しばのりなこ (児童書作家)


上智大学文学部卒業。在学中より東宝演劇部戯曲科で劇作を学ぶ。 「うわさのミニ巫女」(講談社青い鳥文庫)でデビュー。 著書に「放課後、きみがピアノをひいていたから」シリーズ(集英社みらい文庫)「思い出とひきかえに、君を」(集英社オレンジ文庫)、訳書に「ひみつのマーメイド」シリーズ(KADOKAWA)など。 名古屋児童文学ZOOの会に所属。 第35回名古屋市文化振興事業団芸術創造賞受賞。
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