見慣れた街が時々、見飽きた街だと感じられることがある。街並みの所々がほころび、そこがまた縫い合わされて、修復されて、少しだけ変化することはしばしばあるけれど、ぼんやりとしていたら気づかないほどにその変化は小さく、緩やかであるので、この街はいつまでも変わらないな、なんて思うのだろう。
夕方、歩道橋の上で足を止めて、通りを眺めると、いつでも車が行ったり来たり。道がすいていればすごいスピードで走っていくし、混雑していれば、停まって、ちょっと動いて、また止まって、のろのろ。その脇の歩道の上を、高校生が横三列に並んでおしゃべりをしながら、自転車で走っている。おいおい、並走はダメだ、交通違反だぞ、迷惑だぞ、そんなことを口の中で呟いていると、散歩をしているおじいさんの脇を、三列のままちょっとだけきゅっとなって、ぎりぎりで避けてゆく。危ねえな、もしひっかけでもしたら大変なことになるぞ、なんてことをまた口の中で呟こうとすると、習字道具の入っているらしいカバン型のケースを振り回し、小学生が歩きながらの大盛り上がり。バットね、これ、バットね。おれ、平田。平田の打ち方って、こうじゃね? と習字道具のケースをバットに見立て、野球のスウィングの真似をしている。でっかい声。車の騒音を追い越して、歩道橋の上まで聞こえてくる。
楽しそうだね。でも、習字道具のケースをバットに見立てるだなんて、ちょっと無理がないかな。そこはラケットにしておいて、大坂なおみ選手のサーブってこうじゃね? としたほうがいいのではないかな。バットにしては、打面が広すぎる。余計なお世話かもしれないけれど、リアリティって大事だよ。
子どもたちが交差点にさしかかったところで、左折の車からクラクション。危ない、危ない。前を見て歩きなさい。でも、左折の車も、もっと注意したほうがいいな。子どもの動きは、なかなか読めないからね。
そんな景色を眺めていると、もうちょっと街を整理すべきなのではないだろうか、という考えが湧いてくる。もっと皆がスムーズに、スマートに、安全に行き交えるようにすればいいのに、と。それはきっと、快適な街であるはずだから。でも、街の変化は緩やかだから、急には難しいか、とも思う。道を一本通すのだって、何年もかかったりする。家を一軒建てるのにだって、何か月かはかかる。街というのは、時間をかけて緩やかに変わってゆくものなのだ。そりゃ、見飽きるよね。
なんてことを考えていたはずなのに、歩道橋の上からの景色が急に変わってしまうと、妙に頼りないような、寂しいような気分になる。危なっかしい高校生や、小学生の姿はなくなり、車の数も心なしか少なくなり、他には誰も歩いていない歩道の上を、散歩のおじいさんだけがマスク姿で安全に、静かに歩いている。聞こえるのは、車の騒音だけ。整理されたわけではないのだけれど、街が整然としている。おじいさん、今日の散歩は、ちょっとつまらなそうですね。嘘みたいな景色ですもんね。SFの世界、というとちょっと大げさかもしれないですけど。安全そうだし、整理されている感じはしますけど、変ですよね。
通行人の高校生、A、B、C。通行人の小学生、その一、その二、その三。あれ? その四もいたかな。まあいいや、とにかく、早く帰ってきてよ。落ち着かないからさ。つまんないからさ。言いたかないけど、寂しいからさ。君たちは、この街の主役なんだ。今、気がついたよ。
見飽きた街は、見慣れた街。見慣れても、見飽きても、いつもここからこの景色を眺めていたのは、なんとなく気に入っていたからなのかもしれないな。
今日のところは仕方ない。うちに帰って、大人しくしていよう。そのうちきっと、元に戻るから。
戻ってくる景色は、ほんの少しだけ前とは変わってしまっているのかもしれないけれど、今日見ているこの景色とは比べ物にならないぐらいに、楽しく、美しいだろう。
それをまた、見慣れるまで、見飽きるまで、ここから眺めたい。
広小路尚祈(作家)
1972年愛知県岡崎市生まれ。高校卒業後、ホテル従業員、清掃作業員、不動産業、消費者金融業、タクシー運転手など10種類以上の職を経験する。2007年に「だだだな町、ぐぐぐなおれ」で第五十回群像新人文学賞優秀作。2010年に「うちに帰ろう」で、2011年に「まちなか」で芥川賞候補。著書に「うちに帰ろう」「金貸しから物書きまで」「いつか来る季節~名古屋タクシー物語~」「今日もうまい酒を飲んだ~とあるバーマンの泡盛修業~」などがある。