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菖蒲の花
よい便り
朗読:加藤K子
  
ほんわかシアター

 夢の続きはどうしたら見られるのだろう。
 パタン、と本を落とした音でまどろみから覚める。
 断続的な震動が続く平日昼間の電車内。湿気に曇った窓の向こうで、7月の雨に晒された田園風景が流れている。
 僕は寝ぼけた目を擦りながらため息をつく。
 気は急いていても居眠りしてしまうものなんだな。無理もないか。最近忙しくて睡眠不足だ。
 落としてしまった本を拾おうと手を伸ばしたとき、僕より先に小さな手がその本を拾い上げていた。
 驚いて顔を上げると、そこには青いワンピースを着た少女がいた。
 小学校中学年くらいだろうか。長い髪を三つ編みにまとめた姿がよく似合っている。顔を見ると、右目の下にある泣きぼくろに自然と視線が向いた。
「これ、あなたの?」
「え、ああ……うん。そうだよ。ありがとう」
 手渡された本を受け取る。
「ねえ、赤ちゃんの名前決めてるの?」
「え?」
 僕が読んでいた本は、「赤ちゃんの幸せ名づけ辞典」という本だった。
 そう、僕にはもうすぐ子供が産まれる。この電車に乗っているのもそのためだった。
「う、うん。そうだよ」
 そう答えると、少女は人懐っこい笑みを浮かべた。
 少し驚いた。本を拾ってくれるだけならともかく、よく知りもしない男にこんな風に話しかけてくれるなんて。
 なんだか不思議な子だ。
「実は、もうすぐ子供が産まれそうなんだ。さっき奥さんのお母さんから連絡があってね。陣痛が始まったらしくて、今まさに奥さんのところに向かってるところなんだ」
「ふぅん。でも、まだ名前決まってないんだよね?」
「いやぁ、うん。そうなんだよ……。出産予定日はもっと先だったんだけど」
「じゃあ、早く名前決めないとね!」
 そう言って少女は、僕の隣に元気よく座った。
「君、変わってるね。こんな知らない人に話しかけるなんて」
 でも、気さくでとても可愛らしい。僕の子もこんな子に育ってくれるだろうか。
「変わってる? んーそうかも。お父さんに似たのかも」
 父親もこんな感じの人なのだろうか。いや、それを言うなら知らない子に出産のことまで話している僕も似たようなものか。
「名前、なんにも決まってないの?」
「候補はあるよ。奥さんと二人で二つにまで絞って、『あとはどちらにするか決めて』って奥さんに言われてるんだけど、なかなか決めきれなくってね」
「どんな名前なの?」
「『菖蒲』と『陽菜』の、二つで迷ってるんだ」
「アヤメって、お花の?」
 そう言って、少女は窓の曇りに花の絵を描いた。なかなかに上手で、アヤメの特徴を捉えられていた。
「うん。よく知ってたね」
 アヤメという花は、僕と妻の思い出の花だ。だがそれをそのまま子供に名付けるのはどうか、ということで画数や姓名判断などを調べて考えた名前が『陽菜』という名前だ。
「じゃあ、アヤメがいい! お花の名前で可愛いから!」
「アハハ、可愛いからかぁ」
「うん! だからきっとその名前にしてね!」

 パタン、と本を落とした音で目を覚ました。
 雨の匂いが漂う電車内。あたりを見渡しても誰もいない。気づけば目的の駅についていた。
 大きな大きな音を立てて開く扉。雨に冷やされた涼しげな空気が頬を撫でる。
 電車を降りるのと同時に、スマートフォンに着信があった。予感が僕の心をくすぐり、慌てて受信ボタンを押すと、感極まった妻の母親の声が聞こえてきた。
「純一さん! 産まれましたよ! 無事に!」
 間に合わなかったという思いと、それに勝(まさ)る喜びと安堵(あんど)。あらゆる感情が僕の心に押し寄せて、思わず僕は膝をつきそうになった。
「とっても可愛い子よ! 右目の下に大きなほくろがあるの!」
「え……」
「そういえば名前もう決めました? 前聞いたときはまだ決めてないみたいでしたけど……」
 僕は発車し始めた電車の窓に目を向けて、そして決めた。
「アヤメです。アヤメという名前にしようと思います」
 降っていた雨はいつしか止んでいて、雲の隙間から差しこんだ光が、電車の窓を照らしている。曇った窓には、細い線で書かれたアヤメの絵が描かれていた。

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