ミルメーク
「モリー」
体育倉庫に駆け込むと、美玖は息を整えながら呼びかけた。すると跳び箱の隅の影が微かに揺れる気配がして、美玖はホッとした。影に近づき、膝を抱えて座り込む。走って来たせいですぐに話し始める事ができず、美玖はふわふわと揺れる影をじっと見つめた。
「今日、ね、中村君、が、給食当番で」
しばらくして、美玖はようやく話し始めた。
「牛乳、残そう、としたら、飲めっ、ちびのくせにって・・・」
影は美玖の話をじっと聞いている。
「ちびじゃないって、言おうと、したの。だけど・・・」
すると影がふわっと揺れて、美玖の背を柔らかく撫でた。
「モリ―・・・」
美玖はまた、泣きそうになる。だって美玖は、中村康太の言う通り、確かにちびなのだ。整列の時はいつも一番前で腰に手を当てる係。腕を伸ばした事は、小学三年生になった今でも、一度もない。わかってはいても、面と向かって「ちび」と言われると、美玖は悔しかった。言い返そうとしたが、涙が落ちないようにするのに必死で、結局美玖は、ただ俯く事しかできなかった。影は、そんな美玖の気持ちがわかるよ、というように、美玖の傍で揺れている。
美玖がモリ―に出会ったのは、一か月前の事だ。校庭から教室に戻ろうとしていた美玖は、体育の授業で使ったドッジボールが、一つだけ転がってるのに気づいた。体育係が片付け忘れたのだろう。ボールを持って所在無げに立っていると、担任の八田が美玖に声をかけた。
「お、高畑、ボール、体育倉庫に片付けといてくれるか」
「あ、あの・・・でも・・・」
「頼んだぞ~」
大きな笑顔でそういうと、八田は走って行ってしまった。ふうっ。大きなため息が、美玖の足元に零れる。美玖はお喋りが苦手だ。もともと得意な方ではなかったが、東京から父親の転勤で名古屋に越してきてからは、もっと無口になった。話そうとすると、何故か声が詰まってしまってうまく出てこない。すると周りの人は笑ったり、いらいらしたりした。だから美玖は、なるべく喋らない。美玖の気持ちは、いつも声になる前に、胸の中で消える。
「よい、しょっと・・・」
重たい扉を開けると、舞い上がった塵が、明り取りの窓から射し込む細い光で、きらきらと輝いた。
「きれい・・・」
埃っぽい体育倉庫が特別な場所の様に感じられ、美玖はしばらくそのきらきらに目を奪われた。その時、跳び箱の隅で、何かが動く気配がした。
「だ、誰?」
上級生か誰かが、隠れていたずらをしているのだろうか? 美玖は怖くなって、ボールをぎゅっと抱きしめた。すると影は柔らかく揺れて、美玖に手招きをした。
「な、何し、てる、の?」
美玖は影にそっと近づいた。
その日から、美玖はこっそり体育倉庫に来ては、モリ―と話すようになった。「モリ―」というのは、美玖が影につけた名前だ。暗がりで揺れる様子が、森の木みたいに穏やかで、安心するからだった。美玖はモリ―となら、素直にお喋りできた。胸の中でつぶれてしまう美玖の声を、モリ―はただ静かに聞いてくれる。
「戻りたく・・・ないな・・・教室・・・」
「おい、ちび! こんなとこで何やってんだよ」
美玖が驚いて振り向くと、康太がズボンのポケットに手を突っ込んで立っていた。
「な、なかむら君!?」
「誰と話してんだ?」
「え・・・ううん、話してない、よ」
「まあ、いいや。ええっと」
そういうと、康太はポケットからごそごそと小さな袋を出すと、美玖の目の前に突き出した。
「な、なに?」
「ミルメーク」
「ミル…メーク?」
「これ入れると、牛乳、めっちゃうまくなるから!」
「で、でも・・・」
「いいから飲め! ちびっ!!」
康太はくしゃくしゃになった袋を美玖に握らせると、走って行ってしまった。美玖はしばらく呆然としていたが、ふと我に返り
「中村君、どう・・・したんだろうね?」
と振り返ったが、モリ―の姿はどこにも見えなかった。
「モリ―? どこに行ったの? モリ―?」
何度呼んでもモリ―の姿はなく、ただ跳び箱の隅には、午後の日差しがきらきらと揺れているだけだった。