NAGOYA Voicy Novels Cabinet

3月の空色

映画館の座席

 長く付き合っていた彼氏と別れた。
きちんと話し合って別れたけれど、さすがに重たいものを飲み込んだような気分は拭えず、食欲もなく仕事以外の時間は上の空だった。

そろそろ気持ちを切り替えなきゃ、と思っていたところ、職場の同期の飲み会に誘われた。
男3人に女2人といういつもの5人。
近況報告で、別れたことを話す。
「久しぶりの独り身、何かしたいことある?」
「うーん、誰かと付き合ってるとできないこととか?」
「じゃ、俺と映画行こうよ」
「あはは、いいね」
確かに、付き合っている人がいる間に、他の男性と2人きりで出かけることはしなかった。

たっぷり2時間飲み食いし、店前で解散して帰路につく。
20分ほど電車に揺られて帰宅すると、携帯が鳴った。
『早速明日の土曜、映画どう?』という短いメールに驚く。
仕事後の飲み会以外、プライベートで同期のメンバーと出かけたことはない。
同期の中で、特別に彼とよく話すというわけでもない。
彼について知っていることといえば、サラダをきれいに取り分ける、煙草を吸う、洒落たハンカチを携帯している、その程度だ。
・・・さっきの、本気だったんだ。
『OK』と返事をした。
すぐに返信が来る。
『みなとのイオンシネマで14時から上映のやつ観よう』
『了解、10分前に映画館のロビーに行くね』
『うちから映画館までの通り道にお前の家があるんだから、車で迎えに行くよ』
そこまでお世話になれないと断ったが、彼は譲らず、結局迎えにきてもらうことになった。

ちゃんと掃除したよ、と言って迎えられた助手席は確かに綺麗だった。
細く開けられた窓から3月のあたたかい空気が流れ込む。
映画館に着くと、彼はすぐにチケットを発券して私に差し出した。
財布からお金を出しても、自分が誘ったから、と 頑なに受け取らず、
「ジュース買いたいから先に席についてて」
と言われ、入場口へ連れて行かれた。

目的のシアターに入り座席につくと、程なくして彼がたくさんの紙カップを抱えてやってきた。
「炭酸飲まないよな、オレンジでいい?あと、ポップコーンは2種類買ったから好きな方食べていいよ」

・・・映画館で、ポップコーン!

売店素通りの私にとって、映画館でポップコーンを両手に抱える男性は、少女漫画の世界の住人である。
相手の好みを覚えているドリンク選びと、わざわざ2種のポップコーンを買って選ばせてくれる気遣い。
そして映画は、老若男女に安心安全、ディズニーの新作。
お手本のような映画デートに心の中で笑ってしまった。

映画を観終えると、ショッピングモールへ行くこともなく駐車場に向かった。
期待してなかったけど結構面白かったな、なんてベタな感想を言ったかと思うと、
「どうする?名古屋港行く?」
と言い出した。
夕暮れ、名古屋港へドライブ、港を散歩。
名古屋を舞台にした少女漫画を展開しようとする王子様。
「いや、明日朝から予定があるから帰るよ」
堪えきれずに笑いながら応えた。
「何笑ってんだよ」
「こんなお手本みたいなデートしたことないから、面白くなっちゃって」
「そう?普通だけど」
「これ、他の女の子なら惚れるわ」
「え、お前は惚れないの?」
「ないね」
「まぁ、俺もないわ」
2人で笑う。
家まで送ってもらい車を降りたあと、彼の車が見えなくなるまで見送った。
そしてふと気づく。
あのヘビースモーカーが1本も煙草を吸わずにいたこと。
車内の空気もとてもきれいだったこと。
ずっと前に、煙草が苦手だと言った私の言葉を覚えていたのだろう。
王子様の所業に、昨日までの重たい気持ちはすっかり消されていた。

それから3年後、彼は少女漫画のヒロインよりもずっと可愛いひとと結婚した。
私はその翌年、映画館の売店を素通りするひとと結婚した。
お互いの結婚生活は本当に楽しいもので、会社で顔を合わせればのろけ話を交換している。

彼に恋したことはない。
友達と言えるほどの仲でもないように思う。
けれどあの日のことは、何年経っても私を笑顔にしてくれる優しい思い出だ。

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