NAGOYA Voicy Novels Cabinet

部屋の香り

お香

「ねえ、うちにも芳香剤置こうよ」学校から帰るなり高2の娘リカが言った。
「うん」澪子は返事だけしてリカの方を振り向きもせず、パソコンを打っていた。慣れないリモートワーク。仕事は溜まるばかりで、リカを構っていられない。
 1か月前、夫が過労で倒れて今も入院中である。出張や単身赴任が多い夫とは、もう随分前から他人のような冷えた仲だったので、入院して家にいないという状況になっても、寂しいとか辛いとか感じる事はなかった。夫の事は、病院の近くで一人暮らしをする義母に頼んである。
「晩ご飯のおかず、また昨日の残り物のキンピラ?」
「文句言うなら、自分で好きな物作ったら?」忙しいとつい言い方も雑になる。気まずい空気。
「お母さんもね、よくそう言ったわ。そしたらね、厳しい母親だったから、怒って次の日、夕食抜きだった」
 リカは黙って、ますます気まずくなる。澪子はふと母の作る料理を思い出していた。どんな料理もしょっぱい味しかしない。子供心に、大人になったら料理だけは習おうと思った。
「母の印象は?」と聞かれたら、澪子に背を向けて朝から晩までミシンを踏み続ける人、と答えるだろう。父が病気がちだったので、洋裁を請負って家計を助けていたのである。家の中が散らかっていても構わず、ひたすら踏み続けるミシン。自分はオシャレもせず、人の服を作り続けた。母のようにはなりたくないと思っていたのに、母と同じような道をたどっているような気がした。
「お母さん、キンピラを目玉焼きの上に乗せて巻いて焼くと美味しいよ」みると、リカはサラダも作って食べている。リカの明るさに救われている気がした。
「玄関に置くとしたら、どんな香りがいい?」澪子はパソコンを打つ手を止めて聞いた。
「いい香りなら何でもいいよ。別に無くてもいいけど、あったらいいかなって思っただけ」
 リカは、友達も多く社交的で行動派だ。友人の家に行くたびに、その家の香りに浸って帰ってくるのだろう。
 香りといえば、以前、町内の用事で昔は造り酒屋だったという、古くて大きな家を訪れた時のこと。門をくぐってすぐの土間の戸を開けた時。何とも言えない良い香りに包まれた。返事と共に現れた奥さんは香りとはイメージが違って、大柄でハスキーな声の姉御肌の人だった。その奥さんと香りのミスマッチさが妙に印象に残っている。
 次の日、澪子は買い物がてら、デパートに立ち寄った。一階からエスカレーターに乗ろうとした時、ほのかな香りが漂ってきた。みると、芳香剤ではなく、お香のコーナーである。
「ちょうどいいわ、何か買っていこう」
 かなりの種類のお香がある。いざ買うとなると、どれがいいか迷ってしまう。出来ればあの造り酒屋の香りにもう一度出会いたい。ひとつ手に取ってみる。『白檀』聞いた事がある。裏をみると『もの事に集中出来、心を穏やかにする鎮静効果あり、エキゾチックな香り』とある。
「これがいい!」
 家に帰ると、澪子はワクワクしながらマッチでお香に火をつけた。すると、ちょうどリカが帰って来て、
「何?お葬式の線香の匂いがするよ」と言った。リカには不評でも澪子にとっては悪くない香りだった。久しぶりに心が浮き立つ瞬間だった。そして思った。香を焚いてゆっくりする心の余裕が澪子には必要なのだと。
 母もあくせくしてミシンを踏み続けるばかりでなく、ほんのひと時でいい『ふっ』と心を落ち着かせる何かがあれば、ガンの発見も、もう少し早く出来て、62歳の若さで逝く事はなかったと思う。

「ほら、買ってきたよ。芳香剤。あとでお金返してね」リカは、オレンジ色のボトルを下駄箱の上に置いた。
『部屋の香りNOワン』とある。
花の香りで悪く無いけど、澪子は自分の部屋ではお香を焚こうと思った。仕事や家事だけでは毎日が過ぎていくのはもったいない。たまにお香に包まれる時間も大事にしようと思った。
 そうだ、今度夫を見舞いに行く時はリカと一緒にリカのお気に入りの芳香剤でも、もって行こうかな。

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