NAGOYA Voicy Novels Cabinet

花火、迎え火

迎え火

 一九八九年。市営住宅の夏はやはり暑い。
 
 僕の家はA棟からR棟まである市営大幸住宅のG棟にあった。四畳半と六畳の二間に、台所、便所、風呂だけの家。和式便所で、風呂にシャワーは付いていなかった。僕は小学三年生で、ファミコンを買ってもらったばかりだった。おばあちゃんが買ってくれた。通知表のニ重丸が増えていたから。僕はおばあちゃんのことが大好きで、おばあちゃんも僕のことを大好きだった。僕にはお兄ちゃんがいて、そのお兄ちゃんは二歳の時に病気で亡くなった。それは僕がまだ生まれる前の出来事で、だから僕はお兄ちゃんの顔を知らない。
 昭和四十年代の半ばに建てられた大幸住宅は四階建てで、それぞれの家に続く階段が東階段、中階段、西階段と三ヶ所にある。同じ棟に住んでいても「同じ階段」を利用する住人たちとはこと更結び付きが強かった。夏はどの家も玄関の扉を半開きにしたまま風を通していた。
 おばあちゃんがお盆のお供え物を持って家に来た。おばあちゃんと母はふたりとも天然パーマで顔がよく似ている。四畳半の部屋には仏壇がそなえてあり、仮面ライダーの塩ビ人形が一体飾ってある。亡くなったお兄ちゃんが遊んでいた人形。おばあちゃんはりんをちーんと鳴らしてして手を合わせた後、振り返って僕の頭を撫でてくれた。
 
 お盆になると市営住宅でも階段の入り口で迎え火を焚く。夕方近くになって迎え火を焚いていると、一階に住んでいる初老の中根夫婦が出てきた。迎え火の松明からすぅーっと煙が登っている。中根のおじさんは目が見えなくて、いつもは白杖をついるけれど、おばさんと一緒の時は、おばさんの肩に手を置いている。おじさんは見えない目で煙の方向を追う。母とおばあちゃんは、何も言わずに焚かれた小さな炎を見ている。僕はそこにしゃがみこんで煙たさに目を細めている。いつの間にか妹を抱っこした父が後ろに立っている。
 オレンジと赤の中間色のような炎が小さくなって、松明の灯りは夕陽を夜に閉じ込めるように消えた。水を掛けられた燃えカスがじゅっと音をたてる。

「ちゃんと帰ってこれたかな」母が言う。
 
 迎え火を消すと父が花火を持ってきた。市営住宅の同じくらいの歳の子どもを集め、それぞれの親も一緒になってする花火。市営住宅の公園は小学生には十分な広さだ。
 公園の隣に聳え立つ、背が高くて湿っぽい匂いのする給水塔の片側が沈む直前の夕陽を受けて赤黒く光る。残照が去り夜になる。僕たちは花火を持ち、時には両手に持ちくるくる回って怒られたり、パラシュート花火を夢中で追いかけたり、ねずみ花火に近づいては飛びよけたりする。夜の公園に小さな光と煙が舞う。声が響き合う。そして、最後に輪になって線香花火の長持ちを競う。思い出を作るなんて目的もなく、ただ楽しいだけの時間。そうして花火は終わり、子どもたちは満足して親たちと一緒に帰っていく。
 
 帰宅して、おばあちゃんと風呂に入って、髪の毛をタオルで乾かしてもらっていると、外からチャルメラの音が聞こえてきた。夜も八時を過ぎると市営住宅に屋台のラーメン屋がチャルメラを鳴らして登場する。普段は乗り気でない父がおばあちゃんがいるからなのか、ラーメン屋さんが来たから行きましょうかと言う。僕は喜ぶ。父と一緒に屋台まで急ぐ。さっきまで一緒に花火をしていた家族もいて子どもたちはまたはしゃぐ。父がセブンスターを吸いながら笑っている。
 
 あれから三十年が過ぎた。両親は老人になり、おばあちゃんも亡くなった。僕は大人になり、結婚して子供ができ、こうしてあの時の自分と同じ年頃になった息子と娘と花火をしている。大人になってからスッポリと夏からずり落ちていた憧憬がよみがえる。怖がる子どもの花火に火をつけてやる。父と母が我が子を二歳で亡くした事を考える。子どもと一緒に笑う妻の声が聞こえる。
 花火が終われば子どもたちはさっさと部屋へ引き返していく。防火用の赤いバケツには役目を終えた手持ち花火が眠るように半分水に浸かっている。僕はそのバケツを持ち上げて、腰を伸ばし、空いている手で腰をトントンと叩いた。

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