NAGOYA Voicy Novels Cabinet

桜色の鶴舞公園

ボクシングジム

 朝礼後の負担を軽くする為に、俺は誰よりも早く出社して、掃除をする。社畜は掃除が大好きだ。上司の顔を伺うと、トイレ掃除を『頑張った』後には呼吸が穏やかになっている。役に立つ事を諦めた俺は、媚びを売ることで、給料泥棒を続けている。社会人として何年も経つが、いつからか、すぐ謝る癖がついていた。
 ある雨の朝礼で部長が下を向き、掠れた声で呟いた。拳を握りしめ、顔からは何かがこぼれそうだった。
「き、切られました」
 部長は上を向いた。顔が真っ赤だった。少し間があり、部長は大声を出した。
「全ては私の責任です」
 大口の取引先から契約を切られてしまったらしい。仕事が半分以下になった。それから、役に立たない社員が休業訓練を自宅で受けている。休業訓練をすると、補助金が貰えるらしい。俺は毎日8時間、ビジネスマナーの動画を見た。それは空気のようなものばかりである。俺は慣れてくると、PCを2画面にして、ネットサーフィンをしていた。
 使い込んだ白い毛布に包まれたような、日々だった。その中で、ボクサーのフラッシュ田中の動画チャンネルを見た。スピードがあり、発言もお洒落で、名古屋では超人気のチャンプである。その一部に愛知県のインターハイ予選で、俺がKOされたものを発見した。俺は画面の中でもがき苦しんでいた。俺は薬師寺に憧れて、ボクシングを始めたが、一回も試合で勝っていない。
 トルコ風アイスを、部活を辞めた時に食べた。白と茶色のねっとりしたクリームを何回もかき回した。甘いアイスには慣れていたが、肩が冷たくなり軽くなった。そして、体の中の熱いものが取れた。それからは世界が、クリームぜんざいのような色に包まれた。
 大学入学後、麻雀にハマった。ボクシングのお陰で、相手を観察する能力は長けており、仲間内で勝ち続けた。でも、本格的な勉強はしていない。
 休業訓練が終わり、謝り続ける毎日が始まった。その週末にスナックで同僚が俺を紹介した。
「こいつ、こう見えても、ボクシングしていたんだぜ」
 俺はわざと頭を掻いた。
「大したことないて。でもよー、フラッシュ田中と対戦したよ」
 女の子は拍手した。ドンピシャのタイミングだった。
「嘘ぉー。すっごーい」
「1RKOだったわ。ハナから無理だて。トレーナー、諦めてたもん。天才ってもの、分かっちゃったよ。それで、やる気が無くなってさー」
 ペラペラと少年漫画の受け売りのような、本当に軽い台詞を口走った。歯磨き粉を飲むような、後味の悪さになった。その夜は吐くまで飲んだ。同僚に抱えられながら、路地裏に出ると、灰色の景色がけばけばしいネオンに照らされていた。
 その夜の夢は、減量がキツイ頃のものだった。試合の1週間前だと思う。運動神経は悪かったが、ボクシングを好きになれて、人一倍頑張れた。親や友人や彼女は皆、応援してくれた。透き通るような薄い青色の世界だった。
 俺は再び、ボクシングジムの扉を叩いた。ジムは綺麗になっており、女性の練習生も何人かいた。思い出にピンク色が加わった。それから生活が鮮やかになった。外の世界が黒から青になると、起床し、ストレッチをする。ジャージに着替えて、運動靴を履き、鶴舞公園へ走る。公園に着くと、縄跳びを飛ぶ。シャドーボクシングを終えると、プロテインを飲み干してから、筋トレをする。シャワーを浴びたら、出社だ。仕事に労力は使わない。常に堂々とさぼる。体力がついたせいか、パワハラも気にならない。定時になると、風のように早くジムに直行する。
 2年後に、アマチュアの試合に出場することになった。会場は鶴舞公園の公会堂である。当日にバスで向かう途中は眠かったが、公園の桜が視界に入ると、足がカタカタと震えだした。
 計量が終わり、薄味のパスタを食べた。その横では花見客が粉物とビールを囲んで騒いでいる。高校時代と同様に、中止を願いながら、エミネムを聴いた。時間ギリギリになると、暖かい風が、薄い赤色の招待状を渡してくれた。
 チャンピオンを目指す訳でもない。お金は要らない。自慢はもうしたくない。俺は俺だけのために精一杯闘う。

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