うららかな陽気が、直射日光に変わる季節。春の終わりを告げる風は、たんぽぽの綿毛を揺らしました。じきに、綿毛たちが一斉に飛び立つ時間です。待ちわびた瞬間に、誰もが高ぶりました。ただひとりを除いて。
ぶわあっ、と激しい風が吹き荒れたそのとき。仲間の綿毛たちは空に浮かびました。そして、何重にも連なった風に、みんなは散り散りに飛び立って。気づけば、誰の姿も見えなくなりました。
──あっという間に、行っちゃった。
そんな様子をひとり、たんぽぽにしがみついたままの綿毛は見ていました。
綿毛は、飛び立つのを怖がりました。みんなが希望を持って空へと誘われる理由が、綿毛にはさっぱりわかりませんでした。だって、もし道路に落ちて車に轢かれたら? 空でカラスに食べられたら? 綿毛にとっては決して、こころよいものではありません。
ずっとここにいてやる。そうと決めて俯いた綿毛の視界に、赤い靴のつま先が映りました。綿毛の前に、一人の男の子が立っていたのです。
綿毛は彼が苦手でした。ほかの男の子たちを連れて、やんちゃばかりしていたから。周りの花を手折ったり、ばたばた走り回ったり、何度踏みつけられそうになったことでしょう。
けれども、今日の男の子はいつもの元気がありません。口を真一文字に結んで、たんぽぽの前にしゃがみ込んでしまいました。
「だれにもいうなよ」
ぽそぽそ、綿毛にだけ聞こえる声で、彼は口を開きます。
「しんゆーが、ひっこすんだ」
綿毛はわずかに、背を伸ばしました。驚いたせいで、綿毛の髪も揺れました。
男の子は綿毛をにらむように続けます。
「でも、きのう、ケンカしたんだ」
大きな瞳をじんわり細めた男の子は、もう綿毛を見てはいません。きゅう、と小さな膝小僧を抱えて、男の子は背中を丸めました。
「もう、あえない、よな」
ひそやかな呟きでした。思わず、綿毛も地面のほうを向いてしまいます。心にぽっかり穴が開いたような、宙に浮いた感覚。けれど、じわり、じわりと芽生えてきた思いは、男の子への怒りでした。
──いつもあんなにやんちゃなクセに。自分勝手な行いばっかなのに。なんで一番大事なときに限って、何もせずにうつむいているんだ?
綿毛はからだを震わせました。自分で「終わり」を決めている彼のことが。どうしようもなく、悔しかったのです。
涼しい風が、男の子の首すじを通り抜けました。綿毛もゆらゆら、なびきはじめます。抱いていた怖さを、風に溶かすように。
遠くの街路樹が、ぴたりと固まった一秒後、綿毛はしがみついていた手を離しました。
ぶわり、勢いづいた風で綿毛のからだは浮かび上がりました。しなやかな背筋をいっぱいに動かして、男の子のおでこ目がけてぶつかりました。ぺちっ、薄っぺらな音とともに、綿毛はターンを繰り出します。
「うわっ!」
くすぐったげに目を閉じた男の子へ舌を出して、綿毛は風に流されました。やわらかな空気の波を、綿毛は必死に泳ぎ続けます。
「っ、このやろー! まてよ!」
男の子は目をぱちくりさせたまま、けれど眉を釣り上げて、綿毛を追いかけました。いたずらな顔は、まるで今までとおんなじでした。
追い風はふたりをぐんぐん進めていきます。街路樹を抜けて、電信柱をいくつも過ぎた道の先は、男の子の家の前でした。
綿毛をつかもうと男の子が伸ばした手は空気を切って、そして。
ひゅるり。風は、綿毛を高く高く空に巻き上げました。ひとつの光になって空に滲んでいく姿を、男の子はぽかんと眺めるばかりでした。ため息をついて、男の子が視線を前に戻したときです。
「おい」
そこには、男の子の「しんゆー」が立っていました。
瞬間、二人の合間を通り抜けたあたたかい風は、男の子の顔をしっかり上げてやりました。まん丸の瞳が、交わったとき。ためらいながら、でも、今しかないと、男の子は口を開きました。
「あのさ」
二人の声が風にかき消されても、綿毛はもう、下を見る必要はありません。高い空から見上げた雲の向こうは、どこまでも青く澄み渡っていました。