NAGOYA Voicy Novels Cabinet

夜の鉄路

真夜中の駅

 あの時、ぐっすり寝ている、まだ小さな子どもの私を起こしたのは、母だった。
「起きて。着替えて」
 居間には、既に私の衣服が並べられていた。
「さっ、早く。出掛けるよ」
 寝ぼけ眼で、ズック靴を履いた。

 母は、祖母の養子である父の二番目の妻である。先妻は、三角関係と借金問題で、祖母から離婚を言い渡された。祖母は、母を次の妻としたが、父は先妻に未練を持っていて、母を嫌った。「あんなお多福みたいな女は、いやだ」 と、父は繰り返し言ったそうだ。
 私が生まれても、父は母につらく当たり、祖母までも父の肩を持った。何度も「出て行け」と言われ、実家へ戻ろうと思ったが、実家の父からは、「帰ることは許さん」と言われた。母は、この家でひたすら耐えるしかなかった。奥の納屋の所で、立ったまま黙って泣いている母の姿をよく見た。
 この深夜の、私を連れた家出は、それが一番ひどかった頃の出来事であった。

 母に手を引かれ、道路に出た。人も車もいない、静まりかえった町並みは、不気味で、初めて見る風景のようであった。
 私達が行ったのは、鉄道の線路の側の狭い空地。横は田畑が広がり、近くに家はない。何の音も聞こえなかった。空は、星が出ていたが、月は見えなかった、との記憶がある。
 母が黙ったままなので、「これから、何するの?」、 寒くはなかったが、震えながら、聞いた。
「汽車に乗って、遠い所へ行くの」
 闇の中の母の顔は、とても怖い感じだった。
 母は、口にしなかったが、あれは自殺しようとしたのではないか。その為に、列車が来るのを待っていたのではないか。
 しかし、列車は来なかった。
 重苦しい沈黙が続く中、すごく怖かった。随分長い時間が過ぎたように思われたが、実際はさほどではなかったのかもしれない。
 やがて、小さな灯火が見えた。それがゆっくりと近づいてきた。目の前まで来て、ようやく父だとわかった。
 母は顔を伏せ、私は勢いよく立ち上がった。とても嬉しかった。父が来たことで、恐ろしいことから救い出されると思った。
 父は、黙ったまま、私と母を見ていた。母は、下を向いたままであった。しばらくして、母がゆっくり立ち上がった。3人で歩き始めた。皆、無言であった。
 後から考えたことだが、父は私達の後をつけて来たのではないか。そうでないと、そんなに簡単に見つからない筈だ。
 それからは、私は、母から距離を置き、父が好きになった。母は危険な存在であった。でも、母は、私を愛しているからこそ、道連れにしようとしたのだろう。
 私達がいた間、列車は来なかった。もしも、来ていたら…。あの時、死んでいなくて良かったと思う。あの時、死んでいた方が良かったと思う時もないわけではないが、そんな時は少ない。だから、生きていて良かったのだ。

 あの出来事があった後、しばらくして、妹が産まれた。この頃、父が病気で倒れ、長い間会社を休職した。
 多額のお金と長い時間をかけて、父の病は回復した。父の療養は、病院ではなく、自宅で行われた。医者の方が来るのである。しかも、県庁所在地K市の大学病院の偉い先生が。お金がどんどん消えていった。
 母は、大分後になって、この頃のことを、「つらかったけれど、お父さんに尽くすことが出来て、嬉しいと思う気持ちもあった」と振り返った。
 母は、年老いてから、父は「病気をして人が変わった」と回顧している。本人も「あれで、目が覚めた」と言っていたそうだ。かつて、あれだけ母を嫌っていたが、必死に生活を支え献身的な看護をしてくれた母に対して、己が態度を根底から改めたのである。この時、母の頑張りを支えたのは、「先妻に負けたくない」との強い気持ちであったと聞いたことがある。
 母いわく、父との結婚生活は、「前半はつらいことばかりだったが、後半は良かった」とのこと。そう言って、幸せそうに笑った母の顔は今でも忘れられない。
 最近、あの真夜中の家出のことを尋ねたら、「さあ、そんなことがあったかね」と、とぼけていた。
                     

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