改札を出ると、潮の匂いがした。
この辺りに土地勘のない芽依はすぐ海が見えるだろうと思っていたのだが、視界にはいい具合にさびれた商店街しか入らない。
辺りを見回す。目の端に、人待ち顔の青年が映った。紺色のTシャツの背中に、リアルタッチのペンギンのイラストがプリントされている。
あの人かな。
ためらっていると、青年が振り返った。
「あのう……それ、狐、ですね」
ペンギン青年は、おずおずと近づいてきて言った。芽依がカバンにつけてきた狐の面をじっと見てくる。
「狐です。ペンギン、ですか」
芽依が答えると、男はホッとしたように笑った。
「よかった。僕、ペン蔵です。今日はよろしくお願いします」
「狐式部です。こちらこそお願いします」
「では、行きましょう」
最低限のあいさつをしただけで、ペン蔵と名乗る男は歩き始めた。芽依は慌ててあとに続いた。
「遠いですか」
小走りになりながら尋ねる。背が高いペン蔵は歩幅も大きく、急がないと追いつけない。
「いえ、そこのアパートに隠れてるんです。信号渡ったら見えますよ」
「やっぱり地元の方は詳しいですね」
「地元っていっても隣町で……あ」
振り返ったペン蔵は足を止めた。
「もしかして速すぎましたか」
芽依はマナーとして首をふったが、ペン蔵は頭を下げた。
「すみません、女の子の速度ってわからなくて」
困った顔をしている。いい人なんだろうな、と芽依は思った。
信号を渡ると、海が見えた。右手にある小高い岩山が、崖になって海に突き出している。地味な風景だが、若いカップルが何組も楽し気に歩いていた。
「平日にしたのに、結構いますね」
「今日は少ない方ですよ」
「独りで来てる人、見あたらない……」
「大丈夫です。僕らも一見リア充です。じゃ、買ってきます」
芽依が五百円玉を渡すと、ペン蔵はあっと言う間に買い物をしてきた。
手渡されたのは、ハート型の絵馬だった。
そっと手に持ち、崖のふもとの石階段を登る。
登りきると、小さな祠と絵馬の奉納場所があった。ちょうどひと組が、ぎっしり書き込まれたハート型絵馬を結わえていた。
芽依とペン蔵は人気のない場所に陣取り、それぞれ絵馬に字を書きこんだ。
「普通は二人で一枚ですよね」
「そこまでは誰も見てないですよ……たぶん」
ペン蔵は自分に言い聞かせるように言うと、芽依の絵馬を見て顔をゆるめた。
「相合傘、久しぶりに見た」
「いいじゃないですかっ」
「とてもいいです」
「そっちは何て書いたんですか」
「えっ。あ、今誰もいないですよ!」
ペン蔵は脱兎のごとく駆けだした。芽依も口を尖らせて後に続く。
鈴なりの願い事の間になんとか隙間を見つけ、自分の絵馬を結びつけた。
「……やってやった」
ペン蔵がぽつりと呟いた。
「太陽の下に出してやったぞっ」
芽依は一瞬きょとんとしたのち、大きくうなずいた。
「あたしも! やってやった!」
ペン蔵は、プレゼントをもらった小学生みたいに笑った。
「ありがとうございます、一緒に来てくれて。ずっと来たかったんです」
「あたしこそ。一人じゃ来られなかったです」
次のカップルが近づいてきたので、二人はその場を離れた。
空と海が、紅色に染まり始めている。
芽依は伸びをした。さっきより体が軽い気がする。
振り返ってみる。結んできた願いはもう、大量のハートにまぎれてどれなのかわからなかった。
「ペン蔵さん、走りますよ」
「え?」
芽依は両足をふみしめ、息を大きく吸って、叫んだ。
「リナさーん、大好きーっ!」
ペン蔵はぽかんと口を開けたが、すぐに隣に並んだ。
「ナオキいいっ、好きだーっ!」
静寂が落ちた、ような気がした。
「走れー!」
長い石段を、二人は駆け降りた。駆け降りながら、笑い転げた。
「願掛けできたー!」
「やったー!」
海が光る。風が吹き去る。夕日が頬に当たる。
顔を上げて走ろう。
誰が何と言おうと、ここは、太陽の下だ。